【ネタバレ注意】想田和弘『精神0』:「無為=0の精神」で映画における「物語の否定」を試みる映画

※以下、本編に関するネタバレがあります。事前に内容を知りたくないという方はご遠慮ください。(2020年2月21日)

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想田和弘監督の新作『精神0』を観た。岡山市内にある精神科の開業医院こらーるで撮影した『精神』(2008年)の続編で、82歳を迎えて引退する医師の山本昌知氏に取材したのが今作である。

人が社会で何かを為し、家族と暮らし、老いながら手を取り合う物語である。元々つけられていた題は、『生きる』であったという。

正式な題につけられた「ゼロ」とは、なんだろうか。冒頭の場面で、山本医師が患者との面談やセミナーで説く哲学。「生き」方の術。山本の言葉でいえば、「何もしない日を一週間に一日作る」こと――無為を作る「人薬(ひとぐすり)」である。

前作『港町』の撮影のためにアメリカから帰国して岡山に滞在していた想田監督は、山本医師が引退するのだと聞いて急いでこらーるに駆けつけた。本作の素材となった映像は、わずか三日間ほどで撮影したのだという。

 

「公/私」「聖/俗」の二分法を崩す「女性」の存在ーー「物語」を否定し続ける構成

本作では、構成が重要だと強く感じた。鑑賞を進めると映画の意味が変化する。観ているうちに、観客が期待する主題や物語が次々と裏返っていくのだ。構成が、観客の解釈をコントロールしているように思えるのである。

その構成は、大きく「前・後半」に分かれる。

まず「前半」では、カリスマ医師たる山本が放つ言葉の力や、彼の周りにいる患者たちが「先生」に寄せる「信心」にも近い信頼が描かれる。それに対して「後半」では、引退という人生の儀礼を通過した山本が、次第にひとりの「人」として生きる姿が立ち現われてくる。つまり、一見すると、一本の映画の時間の流れに「公から私へ」という人生の時間における重心の移動が投影されているように見える。

 

しかし、映画は「滞りなく流れる人生の時間」などの物語には矮小化されない。「妻」の存在が巧みに描かれる。山本は、既に痴呆の症状が進行していると思しき妻・芳子さんを介護し、寄り添い、静かに温かいまなざしで見守る。しかし、そこには介護生活における苦労が見え隠れする。彼らを撮影する監督を山本がもてなそうとするが、所作ひとつひとつからは、家事が極めて不器用な様子、つまり医師としての卓越した経験と裏腹に家庭内での「仕事」経験の欠如が痛いほど伝わってくる。「医師」としてのこれまでの功績を「陰で支え、献身してきた伴侶」の苦労が浮き彫りになる。

「カリスマ」たる山本医師がいわば「世俗化」していくのである。終盤では、山本医師の苦しそうな吐息が常に大音響で響く。人間が「普通に生きる」ことに伴う辛さが音で伝わる。老いの影も聞こえる。一種の原罪にも似た「生きる辛さ」であるが、これは、山本自身が繰り返し口にする、「生きるだけで大変なのに生き続けてきた患者から学んだ」ものでもある。映画を観ている観客は、山本を通してそのことを疑似体験する。

このとき描かれるのは、「公」の領域で働く「聖」なる存在であった「山本先生」が、引退とともに「私」の領域へと入っていったという物語である。しかし、それと同時に、「聖なる医師」という社会的存在を創り出したのは、「世俗」であった患者との関係でもあり、家族関係を通じて彼の活動を支えた女性でもあった。「聖」も「俗」の領域は一種の相補関係にあり、また「私的な活動」は公的領域と常に一体のものだということも、前半から後半への流れで明らかになる。「公/私」や「聖/俗」などとはっきり分けられるものではない。二分法が否定される。

 

そして、終盤ではさらにまた一転。

「社会で活躍する聖人を献身する妻が支えてきた」という物語もまた、否定されるのである。芳子さんの生涯に有り得た別の人生や、潜在的に持っている力、また、「夫婦」といういわば役割・立場とは別の側面にも焦点が当てられる。このスピンによって、これまで観ていた「愛の物語」もまた、人が自分や他人の人生を語るために切りとる一つの(一種のクリシェ的)断面に過ぎないのだと観客に突きつける。家父長制という根強い社会規範が私たちの脳内に植えつけた「型=物語」を通して、「家族」や「仕事」を理解するということが、いかに一面的なものであるかと思い知らされる。

社会で人が持つ役割とは、現実には曖昧で多様なものであり、人間関係や時間を経て変化を繰り返していくものではないだろうか。人間が共に生きる「かたち」とは、制度や理念が求めるようには安定しない*1。「人間」や「人生」や「物語」とは、ある一つのかたちにとどまるものではない。映画は、被写体を通じて人生の「うつろい」を示しつつ、物語とは不定形なものだと観客に体験させる。

 

撮影=観察の倫理

想田監督の他の作品に比べて本作は、撮影主体つまり監督らの映像内での存在感が目立つ。監督が掲げる「観察映画」の十戒(コンセプト)には、「(9)観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、余白を残す。その場に居合わせたかのような臨場感や、時間の流れを大切にする。」とはあるものの、実際のところ、主観視点の不在は鉄の掟ではない*2

今作ではいっそう、言葉を発すべきと判断した場面で監督はちゃんと目の前の人と話している。そうしたカットが「想田の編集を経て」使われている。観客が今観ている映像は誰が為したものなのかを示すという、倫理的な選択が、観察映画のフォーマットをとりながらも強調されているようにも見える。途中、想田監督と撮影を共にするプロデューサーの柏木規与子さんが「ドキュメンタリーですから私たちはいないものとしてください」と被写体に説明しているカットは、ドキュメンタリー映画制作が極めて主観的なものだということを明示している*3

撮影倫理について考えさせられる究極は、被写体の排泄シーンを無音にした演出だ。配慮でもある一方で、しかし突如無音になるこの方法は、このカットを強調して焦点化する機能も果たしている。人間関係の深さをパワフルに描くシーンであるが、このカットや手法を使うかどうかの判断は、映画における「神」たる監督の御心にかかっていた。筆者はこのシーンがどうにも気にかかり、この「倫理」をどう理解するべきか、しばし考えさせられた。

そして、このことが実は、道徳的な選択は常に両義的であるという、ドキュメンタリー映画にとってかなり本質的なことをえぐりだしているのではないかと思い至った。誰かを撮影してある物語を描くとき、それがある立場や一つの解釈からは道徳的であり、それが社会的な意義が極めて高い場合でさえ、画面に描かれた全ての「誰か」は映画の素材(パーツ)として使われることになる。ここには、一方向に働く、避けられない力関係がある。これは、ドキュメンタリー映画の撮影だけでなく、ジャーナリズムが行う取材や、文化人類学者によるフィールドワークなど、社会や文化を「書く/描く」あらゆる行為が有している本質的な暴力である。撮影者の存在が入るカットが多く使われたのは、二作目の撮影で既に現場において関係ができているからという実質的な事情だけでなく、より繊細な「倫理的な配慮」を画面で示したものなのではなかっただろうか。

 

人類学的に描かれる「岡山の風景」

「想田監督のレンズ」を通した風景は、とてもリベラルでグローバルでコスモポリタンだ。結果的に「日本社会」を、ある種の「民族誌文化人類学」の目線で描くものになっている。アメリカ社会を対象に文化人類学的な研究をする筆者が観察する視点は、想田作品とよく似たところがあるとこれまで感じてきた。この点で想田監督作品に強い共感を抱き、知的な興奮を覚えてきた。

「観察」という、一見とてもニュートラルにも見える映像においてもまた、素材の選択、カットやフレームなどの画面構成、シーケンスの順序などの編集を通じて、観客を圧倒する極めて雄弁な「物語」が語られているのである*4。これは、観察映画第一弾の『選挙*5』以来、一貫している。

本作はどうか。日本の古典的なスタイルの城郭を背景にスペイン語を話す外国人観光客。古ぼけてレトロなフォントで書かれる“昭和”的”な看板に、韓国料理やキムチの文字(毛並の非常に悪い野良猫を撮るカットにも執拗にフレームインする)。「ママチャリ」というアジア圏(または日本社会に?)独特で、欧米ではあまりお目にかかることのないデザインの自転車にまたがり、スマホに熱中する小学生(筆者も想田さんの住むニューヨークに近い街に住んでいたことがあるが、北米の都市部の路端でスマホに熱中するのはひったくりに遭う大変危険な行為である。一度被害に遭ったことがある。)。画面の外で、中国語での会話が聞こえる。「学生服」会社の看板が遠くに見える。ーー宇宙人か異世界の住人が世の中を見ているような映像にも思えてくる。そして、撮影者は中学生にいじられたりして、「見られても」いる。

 

岡山で生まれた筆者が見た景色

筆者は、この画面に映るまさにその街で生まれ育ち、東京都内で学生時代を過ごし、アメリカのいくつかの街で研究調査をして人生を過ごしてきた。本作を含めて岡山で撮られた想田作品を観る際には、いつも自分の「岡山ローカル」というアイデンティティが奇妙に働く。「内」と「外」、2つの「レンズ」を持っていると感じるからだ。

例えば先に挙げた「学生服」は、岡山の日常の風景を彩るものである。岡山の企業「カンコー学生服」は、日本国内の九割ものシェアを占める学生服メーカーである*6。しかし、岡山を一歩出て外部からの「レンズ」を通せばその存在は、軍服や昨今であればネオナチなども想起させる異様なユニフォームで、あるいは日本の教育界に蔓延る悪しき「画一化」の象徴とも見える。監督の意図はわからない。筆者の目には、そう映った。

岡山の小さな漁村で撮影した『港町』でも、老人の「濃い」岡山弁がモノクロームの美しい画面に響いたとき、非常に奇妙な違和感を抱いた。それは、映画のなかに「自己」が捉えられる感覚ではないだろうか。ここでいう「映画」とは、報道映像のそれではなく、ドキュメンタリー映画やハリウッド映画のそれである*7

 

「主体を複数化する」ために違和感を用いるーー積み重ねによる「0(ゼロ)」

想田監督作品とりわけ今作について考えるには、この「被写体として対象化されることに違和感を覚えること」が大切なのかもしれない。いまだはっきりとは見えない映画の主題(subject)、あるいは「不定形に、一つにとどまる有為をゼロにすること」というメタな水準での主題に、このことが共振しているのではないかと思うからである。

映画は、山本医師のカリスマ性を世俗化させ、さらに一人の人間の「生き様」も剥がしていく。このひとりの「ローカルな岡山人」が被写体としてカメラという剥き出しの暴力の撮影対象とされる(=objectify 「対象化する・客体化する」と「モノ扱いする」は、英語では同じ言葉である)。画面に映るものと聴こえるものが「岡山的なるもの」として描かれる。その画面の背景知識やディテールが見えすぎるほど見えてしまう筆者には、幸いこのような風景が見える。この外からのまなざしによって規定された「岡山」――いわば「オカヤマ」を、世界各地の映画祭や劇場やホームシアターで上映することは、何かの秤にかけるような違和感を覚えてもいる。

しかし多くの観客にとってはどうだろうか。投影される「物語」は、「遠くのどこかで起こった出来事」であり、「他人事」として違和感なく客体化できてしまわないか。被写体を客体化することを意識し、モノ扱いすることに違和感を持つことによって、この「無意識の暴力」に対抗できないだろうか。

「撮影者・観客・まなざすもの・描くもの」の世界と、「被写体・現場・まなざされるもの・描かれるもの」の世界を出会わせる。こうした相対化によって、いくつかの主体をいったりきたりしながら世界を理解する。この文化人類学的な方法は、あるとき二つに見えた「異なる」世界が、「地続き」でもありえるのだと思わせる。「世界は一つ」でも「様々な世界に分かれている」のでもなく、世界は時に複数に分かれてもいるし、時には一つにもなるのだ。「自分/他人」の間に線を引く時に、一歩踏みとどまる想像力を与えてくれる。

逆説的ではあるが、誰かを撮るという行為において、最も立ち現れるべき主体(subject)とは、被写体(object)だと見なしてみる。ならば、筆者が「ローカル」として感じたような違和感を可視化することもまた、撮影対象の主体性を引き出すまた別の「物語」となる。

本文冒頭で論じたのは、「物語」を重ねては崩す構成や、被写体と対話する監督が画面に現れて「見る=見られる」の関係自体を観客に示す撮影や編集の方法であった。本作で採られたこれらの方法は、「主体を複数化」するためのものなのではないか。本作が採る手法は、主体をゼロに「無化する」のではなく複数「積み重ねる」ことで、そして統一的な状態における「たった一つの正解」を無くすことで、「ゼロ」を目指すものなのかもしれない。

 

「純愛映画」?

そういえば『精神0』の広告は「純愛物語」という宣伝文句になっていたが、その部分はむしろ主題のごく一部のように思えた。「純愛」という言葉をどう受け取るかにもよるが、本作の射程としては、人生における人々と社会と家族と個人が一体になった「愛」のようなものの方が近いように感じた。うまい言葉が見つからないが、きちんと機能している「公共」のようなものというイメージが頭の中にある(「アガペー=信仰を伴う人類愛」とも違う)。鑑賞後に配給会社東風とお会いして、この広告を見て本編を観にきた人は「暗い/重たい」と感じるかもしれませんねと話した。(もちろん、純愛的な関係が二人の間に続いている、あるいはそれはライフステージによって生まれるものだ、というのは後半のいわばオチとなってはいる。) 

そのときに伺ったエピソードは、当初の『生きる』という題でなくなったのは、社長が「精神ゼロは?」と言った鶴の一声に対して、想田さんが「ピンときた」かららしい。やはり「0(ゼロ)」という言葉の奥行きについてもうちょっと理解が深まると、映画全体に通底する意味がわかるのかもしれない。ひょっとすると、想田さんが近年探究しているヴィッパサナー瞑想やその教えへの理解が必要なのかもと思ったりもした*8

 

(追記:主体の複数化こそが「ゼロ」なのであり、「主題(subject)」もまた複数化される事こそが正しいのであれば、この一つの物語もまた正しいものなのだろう。)

 

「中年/自己/物語」の危機:「無為=0の精神」の追究

ここまでまとまらない文章で覚書をしてきた。言葉にした事とも違う、映画から受けた何かの感覚について、なんだろう、わからないなこの感じ、と思いながら数日間を過ごしていた。

通勤の帰り、いつも通りの自転車に乗って、いつも通りのポッドキャストを聴きながら、いつも通りの道で、自宅へと走っていたときに、ふと気がついた。いわゆる「中年の危機(ミッドライフクライシス)」を経験した人の心に刺さる映画なのでは? 

「上を向いて進んでいた」はずなのに、人生のあるステージになってふと、「上下左右が全く変わることがあるのかも?」と、心が揺らぐこと。そんな気持ちの萌芽が自分にも以前芽生えたのを思い出した。数年暮らしたアメリカから帰国したときのことだった。

「老年の純愛映画」や「公/私の否定」といった「強い物語」と、物語に回収されるオカヤマの間で揺れた。それは、「岡山人」でもあり、「外の人」としてのアイデンティティも得た複数の「自己」の間にある揺らぎでもあった。「物語」の否定で「物語を否定する」映画。「無為=0の精神」を追究することの困難と、人が「生きる」ときには本質的に避けられない暴力。人生とはコントロールなどできないもので、映画とは、物語にすることなどできない夢のようなものだということなのもしれない。

 

参考資料

映画作家想田和弘の「観察映画」全作品解題:ドキュメンタリー映画の新地平」 https://notafighter.com/kazuhiro-soda

>「映画が好きなWEBライター」村松泰聖さんによる総まとめ的評論。「観察映画」について教科書的に理解するのに大変便利です。

*1:想田監督と妻・柏木規与子さんが夫婦別姓に反対し日本政府に対して違憲訴訟を起こしていることも思い起こされる。

*2:被写体との関係が培われた上で撮られた『選挙2』にも目立つ。十戒の「大切にする」という表現にこの柔軟さが表れている。

*3:そして、その時の被写体が、撮影のために周到に準備をしている事が明白で、また、彼女の性格上も演技らしい所作をとる人物であるということは、ドキュメンタリー映画が「劇」であることを明確に示しているように思える。

*4:自分は想田作品は「眠くならない」特徴があると思っているのだが、この物語の強さに由来するのではないかと思う。

*5:なお、英題のCampaignとは、英語で「販促活動」と同じ言葉である。この点にも英語圏アメリカなど)における政治キャンペーンとのギャップを見せて相対化させる効果があり、極めて文化人類学的である。

*6:野暮な話だが、こうした事実を知った上でのことか、意識的な挿入なのかどうか想田監督に尋ねてみたい。

*7:そしてこの「物語として外部化する」効果が、一部分はモノクロ処理によるものだということも、DVDを購入してカラー版を観たときにはっきりした。

*8:第84回:ヴィパッサナー瞑想と日常生活(想田和弘) | マガジン9