コロナ期に広がる自動車によるカーデモ:自動車による社会運動というアメリカ的伝統?

車を使ったカーデモがアメリカやブラジルなど世界各地で広がっている。日本でも実施できないだろうか。

もし日本でも首相官邸前とかで実現したら圧巻の光景になるだろう。4月14日には渋谷で「要請するなら補償しろ」デモが感染を拡大すると非難されたが、これなら安全に訴えられる。声を上げること自体を非難してはいけない。行政が補償を出さず放置すれば、困窮すれば人々は感染拡大のリスクを押しても止むなく声を上げる。でないと生きていけないから。個々人の過ちではなく、システムエラーだ。広げている根本を断たないといけない。

 

そこで日本での実施の参考になればと思い、以下の記事を参考にコロナ禍のカーデモについて解説をしてみます。

edition.cnn.com

 

 

移民局や留置所での拘留状態へ多数の訴え

日本の入国管理局と同様に、アメリカでも移民局は非人道的な対応で知られている。アリゾナ州のフェニックス近くの街イーロイの移民留置所では、医療体制が整わぬなか拘束が続いたことで新型コロナウイルスへの感染が増加したことに対して抗議行動が起きた。特に移民局や留置所で拘束状態への抗議の事例が多く見られる。その他、ミネソタ州セントポールペンシルバニア州フィラデルフィアミシガン州都ランシングで、「正義のクラクション(honk for justice)」が鳴らされている。

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フィラデルフィア市庁舎の周りを取り囲む200台ほどの自動車。違反切符が次々と切られている。

また、不十分な経済措置に対する抗議も起こっているのは想像に難くないことだろう。ポーランドのクラカウやブラジルのサンパウロなどの例がある。ミシガンのランシングで予定される建設業者による抗議行動は、自家用車だけでなく工事車両、トラックやボートも出動することで、現場に出られない建設業の疲弊を路上に示すという。

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ポーランドのクラカウで経済救済を求める抗議。

 

 

カーデモの歴史

カーデモの歴史は古く、1964年にはニューヨーク万博への道を車で封鎖し、大規模イベントの背後にある人種差別を訴えようとした。「ハンパク」が60年代のアメリカでも起こっていたことは興味深い。結果的には登録者数が集まらず失敗に終わったようである。

1979年には農業生産者が低下する買取価格に歯止めをかけるよう訴え、トラクターで首都ワシントン大通り(Mall)を封鎖する「トラクターケード(tractorcade=トラクターのアーケード封鎖)」を起こした。

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1979年ワシントンDCでのトラクターケード

ちなみにこのtractorcadeという言葉、1979年の一件だけを指す固有名詞ではない。2011年のウィスコンシン州のマディソントラクターケードのように抗議行動のものもあれば、アイオワ州のように農業記念のイベント化しているものもあるようである。

 

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突き上げた拳のシンボルマークを掲げるStand with Wisconsin

whoradio.iheart.com

     アイオワ州で20年続くトラクターケードイベント

 

 

ネットデモVSカーデモ

路上デモが困難な今、ネットでの抗議行動は拡大している。「#自粛は補償とセットだろ」などのハッシュタグをつけてTwitterInstagramなどソーシャルネットワークSNS)で発信するものはネットデモと呼ばれる。外出できない現在、「現場(フィールド)」がデジタル化によって再構成されつつあるのだ。だが、そこには限界もある。例えば、SNSではアルゴリズムでグルーブ化がなされ、見ている時点で既に意見が合う人とつながるようにできているというものがある。所詮ガス抜きに終わるのだという見方もある。 それに対して、カーデモは、実地の路上空間に比較的安全に出ていくことができるメリットがある。記事内の政治学者は「反対意見のアピールを社会に示し、分断を超えるには実地で訴える力は大きい」と指摘している。路上でのアピールは、マスメディアに大きく「画」として取り上げられるなどして強いイメージを社会に届けられるのだ。

他方で、カーデモにはデメリットもある。車内にいる必要があり参加者同士がつながりにくい。また、過度な威圧感が警察の圧制を招くとも言われる。自動車は一種の武力となるので、集会風景も恐ろしく、警察がすぐに市民を鎮圧できないという不安感を有無という点でも、対応する当局にとっては脅威となりより強い軋轢を生むおそれがあるというのだ。

 

 

自動車による社会運動 social movement by car

ところで、このカーデモのような車を使った運動をアメリカ的文化の伝統とみることもできるのかもしれない。教会牧師の説法にも、自動車を使って各地を巡るという方法がある。

1948年エホバの証人牧師が言論の自由をめぐって最高裁裁判で争った興味深い一件がある。エホバの証人は、1870年代にアメリカのピッツバーグでチャールズ・テイル・ラッセルによって生まれた新宗教である。日本でも訪問宣教で知られるように、その組織は彼の死後も組織化して世界に広がり、積極的に非信者への宣教を行う。そこで街宣車が、非信者である聴衆に広く声を届けられる有効な手段として採用されたのである。裁判では、公に音を鳴らすことは信教の自由にどう含まれるのかが裁判で争われた点で、法的に重要な件でもある。つまり、警察がライセンス更新を許可するかしないかの判断する時、「音がうるさい」ことが理由なのか「信仰の中身」が問題なのかどうやって線を引くのかという問いである。裁判では、街宣を許可する制度は「新教の自由」の観点から憲法違反とされたが、エホバ側の主張として「音を公で出すこと=非信者への宣教」は、手段ではなく信仰の中身と切り離せないものだ、と主張された。これを「街宣車の宗教(sound car religion)」という用語で考察している宗教社会学の研究もある。

books.google.co.jp

アイザック・ワイナー著『信仰を声高に言う(Religion Out Loud)』(NYU Press、2013年)

カーデモにも見られたように、公で声を上げる運動にクルマを使うのが非常にアメリカらしい。異なる背景を持つ多様な人々を内包するアメリカ社会では、世の中で広く声を届ける手段として街宣=ストリートを使う習慣も根強い。それが自動車大国アメリカのアイデンティティと結びついたものが、「自動車による運動」なのかもしれない。

 

追記4/25:フィールドワーカーのためのウェブマガジン『FENICS』で、改稿版の連載を始めました。

「コロナ禍のフィールドワークとアメリカのカーデモ (連載1)」

fenics.jpn.org

追記5/25:連載二回目が公開されました。

「コロナ禍のフィールドワークとアメリカのカーデモ (連載2)」

fenics.jpn.org