日本の現代美術をもっと脱植民地化すべきだった/森美術館「STARS:現代美術のスターたち――日本から世界へ」

森美術館で開催されている「STARS:現代美術のスターたち――日本から世界へ」展を観た。

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選ばれた六人の現代美術家は、贔屓目に言っても「日本を代表する」と言って良いアーティストたちである。宣伝文句でも謳われている通り、この展示ひとつで、第二次大戦後に「現代美術家」として世界で知られる主だった日本の芸術家についてコンパクトに知ることができる。つまり、日本の現代美術の「教科書」である。

 

見せ方も然り。それぞれの作家の典型的なスタイルを選び凝縮し、企画者の視点から書かれた平易な解説文も添えてある。ホンモノを目の前に、極めて簡潔に学べる「教科書」展示。

 

さらに、今回の展示のためにも多くの新作が作られている。この展示でのお披露目を目当てに足を運ぶことにもなるだろう、出品作家を既によく知っている観客へも目配りがなされている。これは一方で、キュレーション上の意味もあって、「海外で発表し始めた初期作品と最新作を基本に、その間の芸術的な発展を凝縮」する狙いがある*1

 

より広い観客層にアピールしつつ、美術研究上の検証活動としても成立させる。この水準ではバランスが取れた企画である。例えば、展示作家のひとりである杉本博司は、2017年に小田原に江之浦測候所を開館したが、これは一種の体験型の作品であり彼の最新作ともいえる。「建築」という展覧会での見せ方が難しいメディアを、この映像は詩的なイメージと言葉で見せている。コンパクトな紹介映像となっていると同時に「杉本の制作史上初の映像作品」と謳ってあるなど、上手いパッケージが施されている。最新作に関する紹介と観光地としての宣伝を兼ねた映像を作り、それ自体が作品だというわけである。

 

六名の展示セクションに加えて二種類のアーカイブ展で全体は構成される。アーカイブ展は、各作家に関する書籍や報道資料の展示と、日本の現代美術を海外で紹介した展覧会年表で構成されている。しかし展覧会図録を見てみても、ここで展示された一次資料に関しては書誌情報の記録に留まり、年表や日本作家の海外出展に関する概要など今回の展覧会で作成された資料だけが掲載されている。この点に鑑みると、キュレーションの重心は、個々の作家の基礎的な調査よりも、「日本現代美術の展覧会の歴史」にあるように感じる。図録にも、「アーティスト個々の発展を掘り下げながら、それをより大きな国際的動向との関係性の中で見つめ直すことを試みた」とあるが、作品に近接して各作家の発展を掘り下げるよりは、「日本の現代美術」という巨大な主語で語ろうと試みるものである。

 

図録の各論考の構成からも、その射程はあくまで巨視的な枠組みにあることは伺える。それらの主題は、米国における日本美術の歴史について(グッゲンハイム美術館のアレクサンドラ・モンロー)や、1980年以降の日本美術の国際化に関するもの(元森美術館館長の南條史生)で、「日本」という国民国家枠組が比較的素朴に全面に押し出されている。ここではひとまず、その枠組みについての批判的な視座の評価はおいておこう。

 

フロアを一周させる動線は典型的な森美術館のものだが、展示順序・部屋の使い方は上手くなかった。作品展の前・後半のあいだに急に資料展示が挿入される。前半の作家は作品を見た後に年表を見ることなるのだが、後半では全く逆になる。(美術自体にも日本戦後史にも特に専門的な知識があるわけでもない状態で見た友人は、後半の作家に関していきなり年表や資料を見せられてもよくわからないと言っていた。)展示室が広いので、工夫はできるだろう。何かこの辺りの展示構成にも、「巨大な枠組み・大きな物語」の傘の中に「作家・作品」というパーツを入れるというトップダウン思考が見え隠れする。作品ないし作家というミクロな素材それぞれを感じながら大きな「画」へと迫るという順序ではないからだ。

 

もちろん順序等の展示設計は意図されたもので、迂闊な失敗ではないだろう。他の部屋と異なり李禹煥の部屋では作品の後に作家の様式に関するキャプションを見せていて、観客の動線・情報提供の順序を明確に意識してデザインしている。李や「もの派」の作風に合わせてのことだろう、視覚情報をインスタレーションのみに向けさせておいて、鑑賞者の哲学的な思考を誘発する意図があるように感じた。この見せ方はとてもよかった。

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「名作」かつ「教科書」的。そして「日本現代美術」というわかりやすい枠組み。各作家の作品数はやや少ない感じもするが、コンパクトにまとまっている。しばしば三、四時間滞在もできるような展示が開かれる森美術館では、観に行くのに「力がいる」ことも多い。軽い気持ちでもう一度行ってもいいな、と思わせる。(チケットがパスポート制ならなお良いかもしれない。)これらの意味では、バランスは良い。制作から研究まで美術や文化に携わる層、もっとライトなカルチャーファン層、国内外の観光客やファミリー層などといった様々な対象をカバーしそうな枠組み。

 

しかしながら、鑑賞しながら、これは何のための展覧会なのか?という問いが常に頭をよぎった。多分、このキュレーションに関する美術史的ないしミュージアム史的意味を問うても、納得できる明快な答えは準備されていないと思う。「アーティスト個々の発展(…)をより大きな国際的動向との関係性の中で見つめ直す」ために、なぜ「国際的評価」「主要国際展の活動歴」「市場評価」として定義したという「スター」という枠組みを使うのか*2。他方で、STAR展という一見すると主題に見えるタイトルは、「JAPAN=国際的な日本という自己アイデンティティ」という国民国家枠組に対する批判的な視座が弱い点から目を逸らすことにもなる事も、気にかかる。

 

「スター」という主題についても物足りなさを超えて「?」が浮かぶ。展覧会には、例えば「スター=知名度がその価値を担保する社会的存在」と定義してみるなら、こうした主題を真摯に掘り下げた痕跡も見つけられない。スターの社会的意味などという、美術界を超えて一般的にみても大きなこの問題は(K-POPやYoutuberなどの現象を考えてみてもよい)、現代美術においては飽きるほど検討されてきたいわば「お家芸」である。むしろ、ポップアートの後継の代表者たる村上隆が、この展覧会には参加してさえいる。しかしながら、この展覧会自体からは、市場と国際政治で定義された「スター」をイノセントに崇める視点しか見えてこない。

 

アートとは時代精神を思索する手段である、と考えて観ていると、さらに皮肉な展覧会ではないかと思えてくる。ここ六本木は、戦後接収されて米軍施設の景色が広がったのち、東京の経済が次第に持ち直した事で不動産投資の中心地となり、それと並行するように「外人文化」の街へと変化するという歴史を辿ってきた。その山手=「ヒルズ」にそびえ立つビルディングの高層に鎮座する美術館である。東京の一番星空に近い場所から「日本現代美術」のSTARに向けられるように仕組まれたまなざしは、高度経済成長期には大衆文化が担っていた、「星条旗の国と距離を測りつつ寄り添って敗戦を乗り越えた」という戦後の"美談"にも重なって見える。展覧会は、国際的舞台の日本美術をニュートラルに検証/顕彰しているようでいて、現代美術の歴史的展開を踏まえて主題に取り組むことはなく*3、そのことはこの美術館が成立している「磁場」の事を思えば、極めて皮肉で政治的なメッセージとして響いてくる。

 

その一方で、森美術館キュレーターの片岡真実が図録で同展について紹介する先の論考は極めて真っ当だ。「ナショナルアイデンティティ」と芸術文化の関係から話をとき起こし、国際展での日本美術の紹介の歴史を網羅しながら、国家の関わりにも触れつつ日本の「国際化」や「経済成長」「アジア交流」などを批判対象とする視座もある。間接的にみれば、日本美術や国際政治、そして森美術館自体の寄って立つ構造的基盤へも批判的な気づきを与えてくれるものだ。

 

加えて、近年欧米を中心に「自己批判」が盛り上がっている「博物館の脱植民地化(decolonizing museum)」現象ーーー収集品・展示や運営に残る白人中心の構造を取り払おうというミュージアムの改革運動についてさえ取り上げており、その日本国内での意識の遅れにも触れながら批判的視座を提供している。人類学の自己反省に牽引されて、国立民族学博物館博物館(みんぱく)のように、ミュージアムを脱植民地化する視点は国内でも単発的に現れているが、これまで美術館の文脈で語られた事はほとんどなかったと思う。それも、森美術館のように「規範」を作り「構造的な偏り(systemic prejudice)」を構築する影響力のあるミュージアムの活動に位置づけられて論じられた事は重要である。しかしながら、翻って展覧会には、片岡論考が良い意味で大風呂敷を広げたこのミュージアム批評的な視座はほとんど反映されていない。これが本企画の具体的かつ最大の問題点ではないだろうか。STARS展は、椹木野衣のいうところの「日本・現代・美術」をもっと脱植民地化すべきだったと思う。できる、のに、やらない。これは極めて罪深い事である。 

 

*1:片岡真実「『世界』とはどこか――その距離を探る」『STARS:現代美術のスターたち――日本から世界へ』美術出版社、2020年、11

*2:前掲同所

*3:筆者は、現代美術史を踏まえない事を批判する立場では全くない。むしろオルタナティヴな複数の歴史に開かれている事に高い価値をおいている。