『クリード 過去の逆襲』評 「ロッキー=クリード」シリーズに見る四つの「再生と継承」

ネタバレ記述アリ〼

 

 「ロッキー」および「クリード」シリーズの最新作『クリード 過去の逆襲』(原題: Creed III)を観たので備忘録。「再生と継承」というキーワードから四つに分けて振り返ってみたい。

1.ロッキーからクリード

 はじめにロッキーからクリードへの継承があった。
 ライアン・クーグラーの映画監督・製作者としての成功譚は、スタローン=ロッキーのそれに擬えられる。
 シルベスター・スタローン(Stallone)は売れない俳優・映画監督時代に『ロッキー』の脚本を描いた。自身を主演キャストとすることを条件に破格の値段で脚本を販売し、映画は成功を収めた。スタローンの私生活やキャリアの背景が作中の物語に幾重にも重ねられている。「イタリアの種馬=Italian Stallion」というリングネーム主人公ロッキー・バルボアは30代を迎えた「晩年アスリート」であり、イタリア系移民というフィラデルフィアの歴史に根ざした「二級市民の白人」だ。この街は工業中心の経済がさびつきつつある、昔の首都「フィラデルフィア=兄弟愛の街」だ。ベトナム戦争公民権運動やカウンターカルチャーを経て1950年代の「アメリカン・ドリーム」の神話が翳りを見せたこの時期、ロッキーは「アメリカというアンダードッグ」の再生として語られた。公開された「1976年」は、劇中も登場する建国二〇〇年祭で全米が沸いており、この旧首都は歴史観光都市として生まれ変わり、仮想的な全米の「中心地」として再び花開いた年だ。私的な物語が、複数の段階を経てナショナルなレベルにまで昇華された、アンダードッグ「再生」の物語だった。
 ライアン・クーグラーは、引退後のロッキーを描いた2006年の『ロッキー・ザ・ファイナル(Rocky Balbore)』で終焉していたこのシリーズを「再生」させた。2013年のデビュー作『フルートベール駅で』がサンダンス映画祭で話題になった後、クーグラーは既知ではなかったスタローンに依頼して続編の制作許可と出演交渉に成功し、クリードシリーズ第一作『クリード チャンプを継ぐもの』(2015年)を監督し大ヒットへと導いた。引退した「イタリアの種馬」ロッキーが、ライバルの黒人ボクサーアポロ・クリードの息子をボクサーとして育てる「父子の愛と継承」の物語だ。この「父子」関係に、実の血縁ではないこと、その背景に過去のシリーズで描かれた実の息子との確執、ロサンゼルス「西海岸」のアッパークラス対フィラデルフィア東海岸」のアンダークラスという階級、そして、「白人・黒人」という人種間関係を絡ませたものだ。制作された時期、全米では大きな人種主義への抗議行動「ブラック・ライブズ・マター運動」が拡大していた。『フルートベール』でクーグラーが描いた警官による黒人射殺事件は、この主題を実在の事件から直接描いたものだった。歴史に根ざした構造的な「命の格差」がBLM運動の焦点だが、「アンダードッグ」の歴史を可視化して継承する。『クリード チャンプを継ぐもの』はこうした「ロッキー的アメリカン・ドリーム」を現代的な書割りで描いている。それは、本作以降『ブラックパンサー』シリーズの製作を続けてきたクーグラーの成功譚であり、同時に、スーパーヒーローものやハリウッド超大作路線=アメリカ映画のメインストリームにおける黒人表象の「再生」物語でもある。
 

2.クーグラーからジョーダンへ

 クーグラーは第一作で監督したのち、第二作『クリード 炎の宿敵』では製作及び製作総指揮へと退き、本作『Creed III クリード 過去の逆襲』でもその体制を保ちながら、監督の方は主演のマイケル・B・ジョーダンが担うことになった。この継承はどのようなものか。
 本作にはジョーダンのパーソナルな趣味が生かされており、作品のストーリーやキャラクターに作り手の背景が投影されている。クーグラーが自身のキャリアを作品製作過程に重ねたのと同様、再び映画制作のノンフィクションとフィクションを交差させるものとなっている。
 例えばジョーダン/アドニスが一作目で発揮しまくった金持ちのボンボン性は、本作でも遺憾無く発揮される。アドニス少年の部屋では壁に貼られたガンダムや日本のアニメのポスターが一瞬大映しになるが、ジョーダンは日本アニメファンとして知られている(※)。日本マンガやアニメのnerd(ナード/オタク)の称号を嬉しそうにアピールするいい年したセレブの「男の子」とは、マイケル・B・ジョーダンそのものだ。
 しかし物語では、トラウマ、自身の辛い過去に向き合う困難、暴力性と男性性(toxic masculinity)というテーマが加えられることで、「アンダードッグ」とは異なるタイプで、観客が共感し応援するキャラクターが提示される。歴史が自身に与えた足枷と向き合えずに時を過ごしてきた。同時に、ストーリー前半で一種のヒールとして構築され、後半でジョーダンと対峙する「兄弟」のデイミアンは、デイミアンは少年期から18年もの時間を刑期として奪われていて、その時期の喪失はアスリートとしても致命的なものである。自身の境遇への怒りを「兄弟」への「怒り」へ転化させた「アンダードッグ」である。4で述べるように本作がフィラデルフィア=兄弟愛の映画ではないことは、ここに必然性を見出せる。彼もまた、アドニス同様歴史の足枷がかけられているが、両者は、試合の直前のシーンで「足枷が外れた」と言葉にし、画面上左右に分かれ袂を分つ。 
 ヒロインのビアンカテッサ・トンプソン)は難聴で聴覚を失いつつあるが、シンガーからプロデュース業へと転向し自身の境遇の足枷と向き合い、別の生き方を選んでいる。このエピソードが前半で語られる際にデイミアンが共感を示しつつヒール化していく。まず両者をつなぎ、他方ではビアンカアドニスを対立させる形で、勧善懲悪的な共感を避ける形になっている。
 さらに「黒人女性」などへのステレオタイプも一種の「足枷」として示されている。トンプソンはインタビューのなかで、感情をコントロールできずトラウマに向き合えない男性と、感情を制御し現実に向き合う女性という設定は、これ自体が(現実でもあるものの)ジェンダー役割を黒人女性・男性へ押しつけてきたもので、アドニスビアンカの諍いのシーンできちんとこの問題に触れていることについて非常に嬉しかったと述べている。
 フィラデルフィアもの、アンダードッグもの、「黒人」「男女」のステレオタイプなど「歴史」を下敷きにしつつ継承する。この方向性は、人種的融和・多様性の点で次代へと継承したクーグラーとは異なる、もうひとつ別のステージ移行のように見える。
 

3.イーストウッドからジョーダンへ? ジョーダンからケントへ?

 本作は、生まれつき聴覚を持たない娘にボクシングを受け継ぐことを象徴するシーンで幕を閉じる。続編への目配せであるが、もし実現するなら、暴力=有害なる男性性と、「女性/聴覚障害者」というマイノリティの主体性を交差させる設定が想像される。娘役を務めたのは実際に聴覚障害を持つ俳優のミラ・デイビス・ケント。本作が映画デビュー作というが、とても愛らしい魅力を放つ彼女が次回作にキャスティングされ、無邪気さの魅力によって「男性性」を覆すボクシングの物語の主人公となれば素晴らしいものになりそう。思い出されるのは、痛ましいほどに尖った女性の表象やアイルランド系のアイコンが使われたクリント・イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』。カウンターパートというか相補的な作品になると面白いなと思う。
 

4.フィラデルフィアからロサンゼルスへ

 本作はフィラデルフィア映画ではない。シーンは一度も登場しないし、何よりスタローン不在だ。ここまで潔くロッキー=フィリー映画でなくなったことは、フィラデルフィア愛郷心を持つ筆者には残念ではあった。いつ出るかいつ出るか、とどうしても期待しながら観てしまったが、最後までスタローンは登場しない(だからこそ、Based on charactors created by Sylvestar Stalloneというクレジットにグッときた)。ある種のご当地ものとしてのロサンゼルス映画として、変奏のように作られているが、『ラ・ラ・ランド』のようなパロディが通用するほどに、ロスはあまりにハリウッド映画の対象になり過ぎているのでそれほど面白い展開ではないと思った。HOLLYWOODサインの上でアドニスフィラデルフィア美術館でのロッキーのようなポーズを取ったり、アポロ=ロッキーまたはドラコ=ロッキー・トレーニングシーンへの明らかなオマージュがある(※2)。
 
 「再生と継承」という線から以上のようにまとめているうちに、次のようにも思えてきた。ひょっとするとクーグラーは、自身が監督する場合どうしてもスタローン=ロッキーという「歴史の構造」から抜け出せないことを理解していて、そのために、継承と再生の使者としてマイケル・B・ジョーダンを仕向けたのかもしれない。彼は、歴史のトラウマに向き合い「汝自身を知れ」というデルフォイの神託なのだろうか(※3)。
 
 
 
 ※1 マイケル・ジョーダンのミドルネーム「B」は、マンガ『BLEACH』に出てくる技「卍解Bankai」に由来する、とか冗談を飛ばしている。クリードはアニメ版としてスピンオフが展開される。冒頭の文字での紹介もあり、映画上映後"Creed: SHINJIDAI"という名でアニメ映画のショート版が上映された。近未来SFもので、2038年の人類火星移住後、火星を含めた六大陸で難民のボクシングマッチが外交的交流戦として開催されるようになったというストーリー。タッチは『AKIRA』や初期ガイナックスなど80年代日本アニメ風に見える(2018年に制作された『あしたのジョー』を原案にした『メガロボクス』のチームが制作したようだ)。「Shinjidai」と日本語を副題に冠しているようにアニメ=日本文化路線を強調した表象だが、他方で、サウンドが和琴でつくられていたりと、ステレオタイプ化や文化のアプロプリエーションについて不安を覚えるものでもある。
※追記20230605
 『クリード』三作目に併映されたアニメ映画『Creed: SHINJIDAI』。いったい何が起こっているのだろうかとしばらく考えながら国内の反応を見ていた。ひょっとすると、ここにはアニメという日本「文化の盗用(appropriation)」についての批判を抑える狙いがあるのかもしれない。
 こちらは結構話題になっている通り、『3』の作中では、日本アニメのアクションを積極的に引用(appropriation)している。少年時代のアドニスの部屋のポスターなどはガンダムルパン三世など日本のアニメだらけ(時代設定と現実の年代は微妙にズレている)、ボクサーショーツデザインはAKIRAインスパイア、アドニス=デイム戦の暗闇演出やクロスカウンター描写はドラゴンボールZNARUTO、はじめの一歩から、NARUTOの二本指握手のポーズも引用されている。
 クリード三作目はアメリカではシリーズ屈指の大ヒットを飛ばしているが、アメリカでは日本アニメの引用元を探す投稿がTikTokなどのSNS上を賑わせている。日本での興行成績は初週から鳴かず飛ばずのようだが、『SHINJIDAI』は日本で初お披露目となり、また今のところ日本だけで公開されている。この特別扱いは「ジョーダンの日本アニメ愛」という物語で宣伝されているが、同時に、オンラインでネタ元探しを誘発しアメリカのファンコミュニティ消費を狙いつつ、「文化の盗用」と批判され炎上することを避けるねらいがあることも十分に想像できる。日本を「もてなして」目くばせするためのムービーであり、映画でも作家性を発揮したマイケル・B・ジョーダンの趣味全開の「やりたい!」にも応える。『SHINJIDAI』も『3』同様に、ロッキーシリーズ以来のプロデューサーアーウィン・ウィンクラーによるもので、正統なスピンオフ作品の位置づけのようである。
 マイケル・B・ジョーダンとしては、有害なる男性的な「黒人男性」の主流文化とは座りの悪かろう、弱虫的な「ナード」や「otaku(=アニメやマンガなど日本のコンテンツに限ったファンを指す言葉)」文化をそこに接続しようとするねらいもあるのかもしれない。(黒人)男性として、自身の弱さに向き合い受け入れていく「クリード」シリーズを通してのアドニスの物語にもフィットする。アメリカの日本アニメファン当事者として、自分こそがそれができる存在だし、私的な物語としても実現したいと考え、今回の作家性に現れたのかもしれない。この点については、筆者もそれほど黒人コミュニティやアメリカのotakuファンコミュニティに明るいわけではないので、ちょっとハッキリは言えないが。
 一方で、当事者であるはずの日本社会ではこうした議論はほとんど聴こえてこないことにも既視感がある。これは、スカーレット・ヨハンソン主演のハリウッド版『ゴースト・イン・ザ・シェル』でアメリカでホワイトウォッシュ批判が巻き起こったとき、日本の言論が凪いでいたことが思い出される。また、アトロクで宇多丸さんが述べていたような日本の観客が『SHINIJIDAI』を観た時の困惑は、筆者も公開初日初回のIMAXで観た劇場でも軽い騒めきのごとく感じたが、Twitter上でも散見される。この困惑は、ロッキーやハリウッド映画を観る国内ファンはやはり「洋画ファン」とでも括るべき一種のサブカルチャー的消費者なのであり、彼らと、アメリカないし英語圏での「otaku」というサブカルチャーの消費者たちの間に生まれたスレ違いが生んだものだったのだろう。
 ※2 IMAXで見た。IMAXで撮影された初のボクシング映画という売り文句で、主役が監督した際によくある、自身の見せ場を作りすぎてバランスを崩すという事態を心配していたが、ギリギリ楽しめるラインではあった。とはいえボクシングシーンは物語上は不必要に長いとは思う。画面のスペクタクルや、4D上映でのスプラッシュとかのアトラクションがない場合、とくに小さなモニターなどでの鑑賞時にはより退屈なシーンと感じるだろう。 
 ※3 アポロはギリシャローマ神話の神。ゼウスの息子で、太陽、調和、光や癒し、音楽やダンスなどを象徴する。古代ギリシャで社会の権力を動かしもした神のお告げ「デルフォイの神託(Delphi/Pytho)」が告げられたのがアポロ神殿。アポロ・クリードが設立しアドニスが継承したジムの名は「デルフォイ・アカデミー」。ロッキーシリーズからして、ボクサーという神々がジムでお告げを受ける神話なのだ。(ときにお告げは神父からイタリア語でなされもしていた。)実際のアポロ神殿の入口には「汝自身を知れ γνῶθι σεαυτόν(gnōthi seauton)」という格言が掲げられていたというが、本作の「見ないふりをしてきたトラウマに向き合う」というテーマへと通じている。デルフォイの語は派生しつつ「イルカ=ドルフィン」や「子宮」などの意味の言葉にもなっていて、これまでの舞台である街の名「フィラ/デルフィア=同じ子宮から出てきた二人のための愛=兄弟愛」へと受け継がれている。初めの首都、すなわちアメリカの起源神話でもある。
 
Creed III クリード3』2023年
監督・主演 Michael B. Jordan
制作/ストーリー Ryan Coogler
脚本 Zach Baylyn