【書籍】新刊『歴史修正ミュージアム』が太田出版から9月25日に発売になります

新刊『歴史修正ミュージアム』が9月25日に発売になります。

 

歴史の軽視やポピュリズムの波に、ミュージアムはどう向き合えるのか。「歴史修正」とは、歴史を歪曲するのではなく、むしろそれらに抵抗する手段なのではないだろうか。ミュージアムはその最前線では? 世界中のミュージアムを巡りながら頭に浮かんだこうした問いからこの本を書きました。

マンチェスターからリバプールスコットランドへと移動しながら、そして参政党躍進のニュースを聴きながら書いた「はじめに」が試し読み公開中。45都市以上をめぐりながら書いた原稿がほとんどで(実際に旅先で書いたのが体感8割)、”動きながら書いた本”にはどのような空気が刻まれているかを感じてみてほしいです。

装画はQ-TAさん、ブックデザインは木下悠さん。デザインも素晴らしい仕立てで、本棚において楽しんでいただけることは間違いなし。どうぞよろしくお願いいたします。

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『歴史修正ミュージアム

太田出版 9/25発売

www.ohtabooks.com



朝日新聞夕刊連載「博物館は誰のもの?」メール取材への回答全文

朝日新聞から博物館行政についてメール取材を受けました。「地方博物館のミッション」と「住民が望まない博物館建設をどう考え、これに対処していくべきか」について、以下に回答全文を掲載します。記事と合わせてお読みいただければ嬉しいです。

 6月末から夕刊で始まる全5回の連載企画「博物館は誰のもの?」のためのもので、とても良さそうな企画で楽しみにしています。

第1回: 自治体の博物館新設計画に住民が反対運動
第2回: 歴史資料館13館を1館に集約した新潟県上越市の事例(館の統合は是か非か)
第3回: 指定管理者制度の進展と、地方での館運営に生じるゆがみ
第4回: 入館者が漸減する沖縄の平和・人権博物館
第5回: 地方博物館のミッションとは

 

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恐縮ながら、今回の個別事例について、議論の経緯を十分に調査できているわけではありません。そのため、以下は、いただいた記事案を拝読したうえで、また報道や行政文書から確認できる範囲でのコメントとしてお受け取りいただけますと幸いです。もし私の認識不足や事実誤認がありましたら、その箇所はご放念ください。

記事で取り上げられている反対運動の事例からは、日本社会にとって「ミュージアムとはどのような存在なのか」、また「ミュージアム政策をめぐって、どのような対話が必要なのか」という問題を考えさせられました。これは、ご質問いただいた「地方博物館のミッション」と「住民が望まない博物館建設をどう考え、どう対処していくべきか」という二つの問いにかかわる問題だと思います。

まず、記事で紹介されている国内の事例は、単純に「地域社会の分断」と見るよりも、公共文化政策をめぐる対話が生まれている例として捉えられるのではないかと思います。もちろん対立はありますが、市民が博物館建設に対して声を上げていること自体は、無関心のまま計画が進む状況や、ごく一部の関係者だけで決定される状況よりも、公共的にはむしろ重要なことです。

欧米の社会参加意識が高い地域の事例を見ても、ミュージアム政策について市民からさまざまな意見が出され、鋭く対立することは珍しくありません。公共施設をめぐる政策の議論や決定プロセスが、公的な場所で可視化されることは、民主的な文化政策にとって本来必要なことです。選挙で選ばれた首長や議会だけでなく、パブリックコメント、公聴会、説明会、メディア、市民運動などを通じて、多層的に議論される必要があります。もちろん、パブリックコメントや公聴会が合意形成のアリバイとして使われることもありますが、だからこそ、その場が実質的な対話として機能しているかどうかが問われます。

その意味では、今回のような反対運動が起き、それが報道されること自体、公共的な監視や対話が機能している面もあると思います。SNS上でのコミュニケーションなどには課題も多いですが、マスメディアやローカルメディアだけでなく、ソーシャルメディアや市民メディアなど、さまざまなレベルで行政や公共事業をめぐる監視が行われるようになったことは、基本的には重要な変化だと考えています。

ただし、そこで議論がすれ違っているように見えるのは、そもそもそのミュージアムが何のために必要なのかという、大きな理念や使命、つまりミッションをめぐる共有が十分ではないからではないでしょうか。日本国内でもミッションを明確に掲げるミュージアムは少しずつ増えていますが、西欧やアメリカの諸都市のミュージアムと比べると、「このミュージアムは誰のためのもので、何のために使われるべきなのか」という問いは、まだ十分に意識されていないと感じます。問題の共有、理解や共通了解がないままに、ミュージアムは「惰性で」運営されているかもしれないのです。

ここで重要なのは、地方博物館のミッションを、行政や専門家があらかじめ一方的に定義するべきではないということです。一般論として、地域の歴史や記憶、文化財、自然、生活の痕跡を調査し、保存し、次世代へ引き継ぐことは重要です。一度失われれば簡単には取り戻せない地域資料は、地域社会の基盤となるものです。しかし、だからといって「ミュージアムとはこういうものだ」と上から定義し、その定義に住民を従わせればよいわけではありません。

むしろ、地方博物館の意義や役割は、その地域の住民が自治的な対話を通じて、自分たちの必要に即して定義していくべきものだと思います。ある地域にとっては資料保存が最優先かもしれませんし、別の地域にとっては観光、福祉、地域交流、防災、移住者との共生、学校教育、芸術振興、差別・不公正是正あるいは震災や過疎化で失われつつある記憶の継承が中心になるかもしれません。ミュージアムのミッションは、固定された正解として外から与えられるものではなく、地域社会のなかで内発的に形成され、更新されていくものであるべきだと考えています。重要なのは、行政があらかじめ用意した計画に住民の理解を求めることではなく、住民が自分たちの地域にとってミュージアムをどう使い、何を残し、誰と共有していくのかを議論できる場をつくることです。その対話を通じてミッションが形づくられてはじめて、施設の場所、規模、予算、設計の妥当性も検討できるようになります。また、かかわりのプロセスを通して課題やミュージアムが「自分ごと」化し、自発的に参画するコミュニティをつくることができると思っています。

したがって、文化財や地域資料を守る必要があることと、特定の場所・規模・予算・設計(会社)による新館建設計画が妥当であるかどうかは、分けて考える必要があります。資料保存や災害対策の必要性があるならば、その目的を達成するために、既存施設の改修、廃校や公共施設の転用、分散収蔵、広域連携、新築など、複数の選択肢がありえます。それらを十分理解できる形で提示したうえで、なぜ一つの計画がもっとも妥当なのかを、時間をかけて市民主導で考えていく場をつくる必要があります。

宇和島市の事例でいえば、公式の概要説明では、現博物館の老朽化や南海トラフ巨大地震への耐震性不足が整備理由として示されています。他方で、基本理念としては「地域の歴史文化の再生、共創の象徴となるべき博物館」「新しいまちづくりと景観の美しさの象徴となるべき博物館」の二つの柱が前面に強調されていて、「地域の歴史文化のプラットフォーム」や「観光交流人口拡大」「市民の利用頻度向上」などが掲げられています。これらはいずれも重要な論点です。しかし、防災的収蔵上の必要性がいかにこれらと関係するのか、また住民自身によるミュージアムのミッション形成とどのように結びついているのかが問われると思います。
https://www.city.uwajima.ehime.jp/site/new-datehaku/gaiyou.html
https://www.city.uwajima.ehime.jp/site/new-datehaku/

また、「象徴」や「新しいまちづくり」「にぎわい」といった言葉は、反対しにくい一方で、具体的に何を実現するのかが曖昧になりやすい言葉でもあります。こうした抽象的な言葉だけでは、住民にとって、そのミュージアムが自分たちの生活や地域の未来にどう関わるのかが見えにくくなります。行政側には、理念を掲げて理解を求めるだけでなく、それが収蔵、展示、教育、地域連携、福祉、観光、学校教育、市民参加などの具体的な活動にどう結びつくのかを、市民とともに考える場をはじめの段階から設計し、透明性をもって説明し続ける責任があると思います。

市民の反対は、こうしたコミュニケーションの問題として捉える必要があります。「文化への無理解」とみなすべきではありません。多くの場合、住民が問うているのは、文化を大切にするかどうかではなく、財政負担や優先順位、合意形成の手続き、そしてそのミュージアムが本当に地域に必要な公共財になっているのかという点です。病院、福祉、教育、インフラなどの課題があるなかで、なぜミュージアムが必要なのかを行政が説得できなければ、反対が起きるのは当然です。ミュージアム運営をめぐる合意形成の手続きはどのようになされているのか、問う必要があります。

拙著『歴史修正ミュージアム』では、欧米諸国の現代的なミュージアムのあり方や活用例を見ながら、「ミュージアムとは何であるべきか」というコンセプトを強く打ち出している事例を紹介しました。西欧や米国のミュージアムでは、規模の大小にかかわらず、「われわれの共同体が必要とするミュージアムとは何か」を問い直しながら、その意味やアイデンティティを更新ーー本書の言葉でいえば「歴史修正」ーーしている例が多くあります。その活用方法も、民族や移民をめぐる反差別や共生、子育て支援、心のケア、医療福祉、貧困対策、文化外交まで、非常に広い範囲に及んでいます。

それと比較すると、日本では「ミュージアム」の仕事の範囲がかなり狭く理解されているように感じます。日本の多くの公立ミュージアムは、必ずしも地域住民の強い要請から生まれたというより、地方文化行政の枠組みのなかで整備されてきた面があります。だからこそ現在、住民が自治や行政にどう関わり、ミュージアムを自分たちにとって本当に必要な施設にしていけるかが、改めて問われているのだと思います。「ミュージアムをいかに使うのか」という住民の共同自治を通して、ミュージアムは自治そのものを再生する場にもなりうる、そのようなポテンシャルを秘めた存在だと考えています。

地域社会の空洞化などを背景に、政治的コミュニケーションの疎外が長らく常態化していることも、ミュージアムが住民にとって本当に必要な制度や施設として再定義されにくい一因だと思います。拙著『楽しい政治』では、日本では「政治」という言葉の含意が非常に狭く受け取られがちであることを踏まえ、アメリカ合衆国の社会運動を例に、消費活動、美術館やモニュメント、アニメや映画などの表現の更新、インターネットミームやSNSを使ったデモなど、さまざまな文化のなかで政治的なやりとりが柔軟に行われていることを紹介しました。ミュージアムをめぐる議論も、本来はそうした政治的コミュニケーションの一部です。つまり、博物館建設への反対運動は、単なる迷惑行為や抵抗ではなく、地域社会が自分たちの公共施設のあり方を問い直す政治的・文化的な実践として位置づけるべきだと考えています。

したがって、住民が望まない博物館建設に対して行政に求められるのは、一方的に説得することではありません。必要なのは、常日頃からその社会のニーズを幅広く理解し、住民の声を専門的知見とつなぎながら、ミュージアムの活用可能性を柔軟に構想する公共的なコミュニケーションの場をつくることです。そして、計画の前提を開き、複数の選択肢を示し、住民が判断できるだけの情報を共有し、(一部のSNS上でのやりとりのように不毛で不健全な交流ではなく)誠実なコミュニケーションを実現する調整役となることです。建設費だけでなく、展示、収蔵、教育普及、地域連携に住民がどのように関われるのかを一緒に考える場をつくらなければ、博物館は「公共施設」ではなく「行政の事業」として受け取られてしまいます。

「ミュージアム」とは、「われわれ」というまとまった集団にとっていかなる存在であるべきなのかを問う場所です。そして同時に、その「われわれ」とは誰なのかを問い直す場所でもあります。地域住民、将来の住民、地域を離れた人びと、過去にその土地で生きた人びと、まだ十分に可視化されていない記憶や声も含めて、どのような公共性をつくるのか。そのための政治的コミュニケーションを成立させる基盤として、地方博物館を考える必要があると思います。

再燃焼=サイネンショー:お直しでも修復でもないが手入れではある

鳥取の友人モリくんがやっている本屋汽水空港で『再燃焼 ザ・サイネンショー』を買う。こないだ遊びに行ったとき、最後飛行機の時間に焦り、買いそびれたのを思い出して送ってもらったのだ。

 

ビニール袋に包んでマスキングテープと書店名のステッカーで、手づくりの包装のなかにはアキナさんからのメッセージが。ここ数年、岡山に住む実家の母が書店フェアでモリ夫妻に出会うのが恒例になっていて、母がお子さんと遊んだとお礼を書いてくれた。小さな書店ならではで、いろとりどりのZINEをオマケに入れてくれた。テーマの雑多さがたのしい。聞き取りポッドキャストの「おばあさんラジオ」、写真家さんによるクールな写真コラージュ、小麦から育てる福祉系パン屋さん通信、アナキズム文献センター通信。等。

 

サイネンショーは、使われなくなった陶磁器を使われなくなった燃材で再燃焼するサイネンのショーで、エコなのかエコじゃないのか、歴史を重ねるのか編むのか、あわいを問いかけてくるざわつき感がある。

 

翻って「金継ぎ」という行為を考える。こちらは、再利用という文脈で、現代社会におけるエコロジーの再考という文脈にスッと落ちついている感覚がある。例えば一昨年の夏、ヘルシンキのデザインミュージアムでは「FIX: Care and Repair(修理:手入れとお直し)」展のなかで、ボロと並べられて日本の再利用カルチャーとして紹介されていたが、金継ぎは世界中のミュージアムなんかを訪れていても「デザイン」「クラフト」のような文脈ではかならず見かけるようになっている。ミュージアムショップでもややお馴染み感覚さえある。

 

サイネンショーは金継ぎと似て非なるもので、「たみ」で三宅くんと蛇谷さんが企画した展覧会でその存在を知った。お直しでも修復でもないが手入れではあるような企画。東日本大震災の経験にひとつの契機がある歴史性や、保存されているモノの価値についてエコノミーを逆なでるところもあったりと結構ラディカルであり、”いいかげん”でもある。サイネンショーの松井利夫さんが「十年間やっています」といいながら窯を開けるのが5年ぶりで、それ半分は休業中やん(笑)、とこの本の中でも三宅くんと山城くんがツッコミを入れているが、そのへんのゆるさは、このプロジェクトのあわいの感覚にも通じている。

 

目次をみたら、色々知っている人の名があってびっくり。全然違う文脈がつながって、一度驚き、そのあと妙に納得している。考古学者の村野さんは、いま「ミュージアムの脱植民地化」というハードコアな響きをもつ研究者でご一緒しているが、考古学のパブリック性を重視しているおもしろ研究者である。美学者の上村さんは、たまたまアルバイトで授業補佐をさせてもらったことがある。

 

⚫︎「サイネンショーのみんげい」展/たみ 

「サイネンショーをよむ」/汽水空港

「サイネンショーをみる」展/Librarie by HAKUSEN

2025年

ukabullc.com

 

⚫︎サイネンショー

https://www.instagram.com/sai_nen_show/

 

⚫︎FIX: Care and Repair展/Design Museum(Helsinki)

2024〜2025年

admuseo.fi

マイ・ブラッディ・バレンタインはメディア・アートである

My Bloody Valentine。整えられたスピーカーとPAのある室内ホールに着席した上で、演奏を「聴く」、というよりも「音像を体験」した。この聴く構えと設えで臨んだ選択は間違っていなかった。


この体験は、ミニマルテクノやトランスのフロアにいるような状態にも近いものだった。自身では経験が乏しいものの、仏教の経読みや坐禅にも遠くないものを感じ、一種の信仰対象としてm b vが神話化されているのも納得がいった。


ダンスミュージックとの影響関係をたどってみたところ、ケヴィン・シールズPublic Enemyやジャンルとしてのジャングルにも傾倒していたようだ。ミュージック系のメディアが喧伝していたマッドチェスターとの対立もほぼ煽りの捏造だ、と彼が口にするインタビューもあった。


Public Enemyからリフレインを初期の楽曲に引用しているらしく(どこだろう?)、なるほどと思った。このサンプリングの手つきや、ダンスミュージックのリズムや音形を再現を試みる執着は、極めて形式主義的である。すなわち、マイ・ブラッディ・バレンタインメディアアートなのだ。


完璧なサウンドにこだわりすぎて、ビリンダ・ブッチャーの歌録りをエンジニアに聞かせなかったとか、スタジオ費を浪費し続けクリエイションレーベルを潰しかけたのだという逸話/神話が有名だが、比較的容易にスタジオでポストプロダクションができる時代を迎えたゆえに現れた、「スタジオというメディア」を用いたアートと呼んでみることもできるのかもしれない。


ポストプロダクションによるロック表現の定式の更新ーーこれはまさに、シカゴの”ポストロック”バンドのトータスで知られるところであるが、この6月に彼らが来日するところには、時代・世代的な必然性を感じるものがある。(なお、トータスのデビューはシューゲイズ旋風の10年弱後)


先日対談させていただいたアサダワタルさんに拙著を読んでいただいた時に、「小森さんは形式の人」と言い当てられたことを思い出したが、投稿を見かけるに、アサダさんも大阪でマイブラを観ていたのであった。彼の表現もまた、「福祉」や「スペース」「造語」を舞台にしたメディアアートなのだろう。

 

https://smash-jpn.com/mbv2026/

 

 

「文化芸術の場における対話とは何か」を通じたアサダワタル=小森真樹の対話

年末に三鷹UNITÉで行った対談のお相手アサダワタルさんが、長文で振り返りコメントを下さっています。

 

一方で、小森さんの『歴史修正ミュージアム』という本も、アーティスト批評、作品批評、あるいは企画展批評、キュレーション批評といったレベルにとどまらず、それを支えている「ミュージアム」という制度そのものへの批評になっている。
彼がなぜミュージアムという制度批評を行うのか、ということを、対談の中でとてもよく知ることができました。
そうした意味で、僕たちが場合によっては「アート」と呼び、場合によっては「政治」と呼び、また場合によっては「福祉」と呼ぶ──そうした領域やジャンルとされる一つひとつのタームを語るうえで、いったい何が僕たちを構造的に規定してしまっているのか、ということに触れていく営みでもあったと思います。

 

人びとの認識や現実の土台それ自体となっている「構造」への着目という点で、アサダさんとは非常に近い角度で物事を捉えているなと改めて感じました。二人が見ている対象は、「ミュージアム」や「福祉」と少しずつズレているけど、角度がかなり近い。なので心地よく話が転ぶ。そういう居心地の良い時間でした。

歴史や社会といった構造へ着目する二人の共通項について、別の側面を取り上げるなら、アサダさんも小森も極めて「形式主義」の表現をするという点にも表れていると感じます。僕がトークの話を、二人が出会った時点よりちょっとだけ前の、アサダさんのメディアアート的音楽のキャリアから始めてみたのはそういう意図でもありました。この日言葉にできたか忘れたけど、メロディがなく、全体を見渡し、リズムをコントロールするーー「ドラマー」という役目を彼が担ってきたこともまた、この思考体系に影響しているのではないかと考えています。昨年夏の展示作「ドラテーブル」、池袋芸劇での最新作「TOKYO CUSTOM DRUMSET」がいわゆるドラムセットという形式を解体し社会化しようとしたものであるというのは、興味深いルーツへの回帰だなと思っています。

形式主義は社会的な表現たりうるのかーーこれは、小森自身のキュレーション表現についても考えている命題です。

あ、「自衛隊に入ろう」の諧謔アイロニーを、『歴史修正ミュージアム』『楽しい政治』の題にみてくれたことは、もうひとりの”ワタル”ファンでもある僕は嬉しいです☺️

全文はここから:

note.com

 

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「文化芸術の場における対話とは何か」(登壇者:アサダワタル、小森真樹)(※リアル&オンラインイベント)

支援現場でのアート実践がもつ支援する側/される側の越境性を描いた『当事場をつくる』(アサダワタル著、晶文社刊)。 過去を反省的に継承し、黙殺された声をすくいあげるという本来の意味での「歴史修正」をおこなうミュージアムの実践を取り上げた『歴史修正ミュージアム』(小森真樹著、太田出版刊)。 一見つながりのないように思える2冊ですが、福祉現場におけるアート実践と、ミュージアムの実践の可能性には、多声性、対話性、越境性といった共通点があるのではないでしょうか。 本イベントでは文化芸術の場において聞かれにくい声や立場を可視化すること、ある問題をめぐる複数の人の葛藤を浮かび上がらせ、対話を志向すること、などについて語りあいたいと思います。

【日時】12/21(日)18:30-20:00(延長の可能性あり)
【会場】三鷹UNITÉ
#現代美術 #キュレーション #ミュージアム #表現 #対話 #ケア #当事場 #出版 #政治 #アメリカ文化 #場づくり #アートプロジェクト #三鷹 #ユニテ

2025年極私的映画選/The Best Movies of the Year '25

 映画好きの学生とイベントを実施して以来続けている「極私的映画選」。
 「極私的」というのは、イマココで楽しんだ作品、つまりコンテクストありきで作品を選ぶという意図でつけたもの。作品の良し悪しとは別に「いま何かを考えるのに大切だと感じる」という点で選んでいます。
 その年の評者の暮らしに即して映画鑑賞を考えるというところにポイントがあります。自分の生きている状況、考えていることに即して「その年の作品」を日記のように記録しています。
 今年は前半三ヶ月はフィラデルフィアを拠点にアメリカに滞在していました。七・八月には約一ヶ間、マンチェスターリヴァプールスコットランド、ロンドン、ストックホルムと巡りながら、新著『歴史修正ミュージアム』を書き上げていました。十一月には、台南・高雄で台湾南部を巡り、そのままドバイ、アブダビ、シャルジャと初めて中東の地をしっかり踏み締めました。あいかわらず移動の多い日々だなと振り返り、落ち着いて映像を観ている感じでもなかったことも思い出します。
 心に刺さった作品を並べてみると、「様々な人びとがここにいる」ということを知ることだけではダメで、その上で「それぞれの人たちの立場や心」に互いが寄り添うことが必要だし、その必要性や難しさに向き合ったものが目立ちます。あとは『キムズ・ビデオ』や『ダホメ』、『ズートピア2』『セヴェランス』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』まで、人びとが過去をどう認知するのか、つまり制度や構造から「歴史」のことを考えてきた一年でもありました。
 

<劇映画/実写・アニメーション含む>


ドキュメンタリー映画

  • 能登デモクラシー』  (監督:五百旗頭幸男、2024年)
  • 『キムズ・ビデオ』  Kim’s Video(監督:デイヴィッド・レッドモン、アシュリー・セイビン、2023年)
  • 『ダホメ』  Dahomey(監督:マティ・ディオプ、2024年)

<テレビ/配信シリーズ>

『歴史修正ミュージアム』が紹介されたメディア、参加したイベントのまとめ

『歴史修正ミュージアム』が紹介されたメディア、参加したイベントのまとめです。

 

メディア

■OHTA BOOKSTAND 2025年8月18日 ※本書「はじめに」試し読み

歴史を「修正する」のは悪いこと? 『歴史修正ミュージアム』はじめにより(試し読み)」OHTABOOKSTAND

■本チャンネル 2025年9月29日

「「正しい歴史修正」とはなにか?——『歴史修正ミュージアム』著者・小森真樹さん インタビュー」

https://www.youtube.com/watch?v=J8E5697RelU

■ポリタスTV  2025年10月22日

「ニュースめった刺し#3|高市内閣爆誕FINAL|岡田麻沙×高島鈴」

https://www.youtube.com/live/lr6GIeOuutI?si=pFrJisLOqa332av-&t=5847

■PRESIDENT Online 2025年10月26日 ※本書からの抜粋記事

「性風俗は"大人の正しい娯楽"か…世界一有名な赤線地帯にある「娼婦博物館」で大学教授が体験した意外な展示 自分が「見られる側」になることも」PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

■研究社WEBマガジンLingua 2025年10月29日

「ルーン文字とアメリカ:移民社会の古文字 | ルーン文字の遍歴」小沢実(立教大学文学部教授、歴史学

日本経済新聞 2025年11月8日

書評 新しい史料や証言 検証の場暮沢剛巳東京工科大学、美術批評・美術館研究)

■ZAITEN 2025年12月号 

「本の紹介」金子昂(本書担当編集による紹介)

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0FX3C37ZZ/httpwwwohtaco-22/ref=nosim

■朝鮮新報 読者プレゼント 

https://chosonsinbo.com/jp/2025/11/21-227/

毎日新聞ウェブ 2025年12月7日 8:00 

「『誠実な』歴史修正とは 研究者が欧米の博物館で見いだしたヒント」清水有香(毎日新聞記者) 

https://mainichi.jp/articles/20251205/k00/00m/040/356000c

北海道新聞 

書評「加害に向き合う『対話の場』」永田浩三武蔵大学名誉教授・ジャーナリスト)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1245315/

 

イベント

■「歴史修正」は悪なのか? 文化戦争の時代における「ミュージアム」の役割から考える【Academic Insights #17】

デサイロ のレクチャーシリーズ「Academic Insights」

2025年10月20日(月)19:30~(Zoom)

desilo.substack.com/p/academic-ins

■「誰が歴史を「修正」するのか?」
日時:2025年10月17日(金)19時~
登壇:小森真樹、河野真太郎
場所:マルジナリア書店(府中市

https://www.hanmoto.com/yyevents/event-20251017

■「アメリカの信仰・文化・歴史をめぐる闘争を考える」『福音派―終末論に引き裂かれるアメリカ社会』『歴史修正ミュージアム』刊行記念イベント

日時:2025年11/24(月・祝)13時~
場所:本屋lighthouse(千葉市)

加藤喜之、小森真樹、北村紗衣(司会・進行)

https://books-lighthouse.com/portfolio/20251124/

■「文化芸術の場における対話とは何か」(登壇者:アサダワタル、小森真樹)

日時:2025年12月21日(日)18:30-20:00

場所:三鷹ユニテ

https://unite-books.shop/items/691e844eb363bc24a2b22d8f

■「歴史をつくるのは誰か?ーーアメリカのミュージアムと政治の現在地」
ゲスト:小森真樹(武蔵大学
日時:2025年12月26日(金)18:00〜

場所:KAG(岡山県倉敷市

 

【企画・出品】「美大じゃない大学で美術展をつくる vol.3|SOS 応答と対話で『何か』を探す」(2025.8.30-31@武蔵大学)

【無事終了しました】武蔵大学で企画した展覧会、二日間で約300名ほどの入場者を数えて盛況に終わりました。「美大じゃない大学で美術展をつくる」シリーズのvol.3。映像と歴史と図像と民俗と言葉とAIとサイバーパンクが、江古田の杜で交差する二日間。作品の〈応答〉によってこの祭りをつくりあげるのは西野正将×ふくだぺろ。構造としかけの企画を小森がつとめました。前回の「藤井光展」に続き、こっそり自分の作品を出品もしています。

まずは以下のリンク先にある「ここをクリック」から、ウェブで公開された作品をチェックしてくれへんか(エセ河内弁でお届けします。その理由も🔗でチェキラ)👇

BIDAIJANAI_03 – 2025年8月30日と31日に武蔵大学で開催される「美大じゃない大学で美術展をつくる vol.3」のウェブサイトです

 

概要、写真、企画の解題を本記事の後半に記しています。




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美大じゃない大学で美術展をつくる vol.3|SOS 応答と対話で「何か」を探す
SOS: Searching Of Something through Responses and Dialogues

会期:8月30・31日 両日9:00-18:30 
会場:武蔵大学江古田キャンパス各所(学会受付で展示場所のマップを配布しますので初めにお越しください)
入場無料

【関連トーク、ワークショップ】
「美術展制作の構造の中に組み込んだ「対話」を表象文化論学会のパネルで公開する──東京・練馬=ルワンダ・ムサンゼ」
日時:8月31日 13:30-15:30 
会場:武蔵大学6号館6201教室(直接会場に起こしください)

展覧会ウェブサイト
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アーティスト
 西野正将(美術家、映像ディレクター)
 ふくだぺろ(アーティスト、詩人、マルチモーダル人類学者)
キュレーター 
 小森真樹(ミュージアム研究、アメリカ文化研究)

【企画概要】
「SOS 応答と対話で『何か』を探す」プロジェクトは、コミッションワークを通じた制作、展覧会、そして対話セッションから構成されます。それらは、アーティスト同士があらかじめ定めたルールに基づいて制作物を往還させる〈応答〉と、そのプロセスや作品についてキュレーターを含めて議論する〈対話〉という二つのパートを中心に進められています。
 本展出品作品には、西野正将とふくだぺろの二名のアーティストが互いに対話のように応じ合いながら制作した〈応答〉に加えて、武蔵大学の歴史そのものに対するアーティストたちの〈応答〉も含まれます。〈応答〉を言語化する〈対話〉を通じて、協働制作や展覧会の主題そのものが制作のプロセスとともにかたちづくられていくような、開かれた枠組みとして本展は構想されています。
 会期中には、表象文化論学会のパネルとして〈対話〉を公開形式で実施し、展示物や制作の過程について制作者自身が語り、ワークショップを通して参加者が制作の枠組みに参加する機会が設けられます。映像、詩、文学、インスタレーション、パフォーマンスなど、表現手法に制限を設けず、幅広いメディアによって両者の可能性を引き出していきます。
 本展では、完成された作品だけでなく、プロジェクトでの試作品とオープンエンドなプロセスをあわせてご覧いただくことで、「展覧会をつくる」という行為そのものを考える機会になればと考えています。

 基幹事業となる本展では、〈応答〉の成果作品、〈対話〉のドキュメンテーションに加えて、さらに武蔵大学における歴史調査を起点にした新作を発表します。西野は、三号館中庭で朽ちたトネリコの大木から作られた記念バットの来歴をたどりながら、キャンパスの「地層」を地球史的なスケールで掘り下げ、人文学的に再生を試みます。ふくだは、キャンパス最古の人工物である不動明王像に、皇紀2737 年の「Cyberpunk 武蔵明王」という未来の偽史を書き込みながら、せせらぎ広場の川縁にスペクタクルとして蘇らせます。
 二つの歴史語りはキャンパス以前の「墓跡」というトポスの記憶と交差しながら、大学の歴史を江古田の町へと響かせていきます。

【関連トーク、ワークショップ概要】
「SOS 応答と対話で『何か』を探す」プロジェクトの一部をなす本イベントでは、展示物や制作の過程について制作チームのメンバーが議論する場を設けます。議論は参加者にも自由にご発言いただくワークショップ形式で行います。会期中にキャンパス内で開催している展覧会と併せてご参加ください。

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【企画者・作家による解題】

今回の展覧会は表象文化論学会の企画として実施されました。学会では一つのパネルを担当して、その場で展覧会に関する対話の場を公開するワークショップを開催しました。

《美術展制作の構造の中に組み込んだ「対話」を表象文化論学会のパネルで公開する──東京・練馬=ルワンダ・ムサンゼ》というタイトルをつけたこのワークショップは、「小森真樹」名義で発表されたパフォーマンス作品として位置づけています。これは、本展覧会で作品制作のために設計した構造における〈対話〉=言葉を交わすことで「ロゴス」の原理を制作へとフィードバックする場を、「大学=学術共同体」や「江古田・街=地域共同体」という場へと公共化することで、作品制作という枠組み自体をひらいていくとともに、その構造を意識化・批判することを試みたものです。

このパフォーマンス作品内では小論文を配布しました。これは本展のキュレーション、及び、ふくだぺろと西野正将それぞれによる本展のメイン作品について、美術や美術館における対話理論で知られる思想家ジャック・ランシエールの理論にのみ依拠して論じたものです。

実はこの18000字の小論は、ふくだぺろさんが〈応答〉の中でAIをプロンプトを用いて巧みに操っていた操作、それも方言などを用いてAIとの対話を人間的なコミュニケーションとして過剰化していた所作、すなわちAI援用と批判の技術=芸術を模すことによって、生成、「執筆」された偽学術論文です。再演すること、すなわち本物・原型から少しずつズレることによってしか表現や伝達とはできないのではないか。この命題を経由して、「美大じゃない大学で美術展をつくる」シリーズの第一回目からのテーマと重ねてもいます。

これは、ソーカル事件のように稚拙な学術界批評に終わってしまうことなくーー無論それには歴史的かつ文脈的な大きな意義は認められますがーー学会の研究大会という仕組みの中で、現在なしうるべき構造批評が機能する方法を探ったものです。「表象文化論学会員が制作しそうな論文」としてAIへプロンプトで対話をしながら制作したもので、当初フランス現代思想的な固有名詞を乱雑に散りばめたこれ以上に杜撰な作文が吐き出されたのですが、それをランシエールの理論に絞り込んでいきました。論文のビジュアル面では、ふくだぺろさんとの協働のもと学会誌『表象』の誌面デザインを擬態して制作をしています。また、これは全くの偶然だったのですが、今大会で学会員の優秀な出版物に贈られる賞に、鈴木亘さんの『声なきものの声を聴く ランシエールと解放する美学 』(堀之内出版)が選ばれた(!)のは、驚くべき一致であるとともに、”文系は古めかしい”的なよくあるステレオタイプとは異なり、これこそが人文学の時代即応性であるなと嬉しく思いました(インチキ論文作品発表前に知り合うことができた鈴木さんに断りを入れることもできました)。学術界の構造への芸術介入を試みたこの「拙論」は、以下からDLできますので、ぜひ文字通りご笑覧ください。

この「SOS 応答と対話で『何か』を探す」はオープンエンドなプロジェクトで、今後もまた〈対話〉と〈応答〉を続けていきます。今後未定の予定は、東京外大のマルチモーダル人類学学研究会で何か進められればと検討中です。また、東京工芸大の野口靖さんが「美大じゃない展」の次回展を来年3月頃に公開してくださることにもなりそうです。引き続き、追いかけていただければ嬉しいです。

小森真樹
《美術展制作の構造の中に組み込んだ「対話」を表象文化論学会のパネルで公開する──東京・練馬=ルワンダ・ムサンゼ》
《Opening a Public “Dialogue” Embedded within the Process of Exhibition-Making: Field Notes through a Panel of The Association for Studies of Culture and Representation, Linking Nerima, Tokyo, Japan and Musanze, Rwanda》
ワークショップ、ミクストメディア、時間・場所・規模可変
日時:8月31日 13:30-15:30
会場:武蔵大学6号館6201教室
対話者:小森真樹、西野正将、ふくだぺろ、会場参加者
協力:表象文化論学会、武蔵大学人文学会

小森真樹
《観客=知の再配分の主体としての大学展示―ランシエールの観客論から読む Searching of Something through Responses and Dialogues》
ChatGPT、プロンプト、対話(補遺《美術展制作の構造の中に組み込んだ「対話」を表象文化論学会のパネルで公開する──東京・練馬=ルワンダ・ムサンゼ》内で公開)

DLリンク:

小森真樹_AI生成論文による学会制度への芸術介入_20250831.pdf - Google ドライブ

 

ヴィクトリア・アンド・アルバート(V&A)ミュージアムのスコットランド・ダンディ分館

2025/07/30
 V&Aヴィクトリア・アンド・アルバートミュージアムスコットランド・ダンディ分館。衰退した工業都市の再開発のなかで誘致され、2015年に開館した。
 トランプ降臨を白々しいと報じるメディアと反対運動に沸くここスコットランドでは、ポピュリスト政党リフォームUK(イギリス再生というこの名は「再生の道」を思わせる)の党首ナイジェル・ファラージが街中の至るところでちらちらと見え隠れする。「直接あなたと話します!」と人びとの声を聴く政治家を喧伝するデジタルサイネージ広告。かと思うと、あいつはファシスト、ナチだから気をつけろというストリートのステッカーやグラフィティ。皆がリラックスしてるV&Aの川沿いの公園を歩くお父さん同士は、ファラージはナチだよねーって会話してる。朝。
 公園として設計されたリバーサイド地区の一部に溶け込んでいる。橋と接続のモチーフが特徴的な「つなぐ」ミュージアム。館内にはやたらと座る場所が多く、展示物そのものがソファになってたりもする。館の内外が公園として地続きにつながっているイメージ。
 パレスチナの刺繍を主題とした企画展は、イングランドスコットランドが関わった負の歴史にも触れながら、スコットランドやダンディとパレスチナのつながりを見せていく。刺繍とドレスが地域によって多様だという語りが強調されているが、ガザ地区の様式の展示にはガラスケースに敷かれた特別な一点があるーー爆撃で命を落とした少女のドレスである。

エドワード・ゴーリー『うろんな客』書評 表象文化論学会第19回大会・親子休憩室内展示

武蔵大学で行われる表象文化論学会・第19回大会に設置される親子休憩室内で展示される絵本の展示で選書を行いました。

 

エドワード・ゴーリー(文・絵)、柴田元幸(翻訳)
『うろんな客』、河出書房新社、2000
 言わずと知れた奇才エドワード・ゴーリーの代表作だけど、今回選書のために読み直してみたら、なんだか別の物語のように見えてきた。気づくと家の中に、なんだか気持ち悪くも可愛くも見える「客=ゲスト」が入り込んでいる。何をしているのかよくわからないのだけど、なにか意味があるようにも感じられる。でも、そのわけについては直接尋ねたり明らかにするのがどこか躊躇われる。気がつくと十七年が過ぎていていて、「客」はいっこうにいなくなる気配もなく、ただただ“家のもの”として共存している。
 シカゴで生まれニューヨークで働いたゴーリーが身を置いた世界は、急激な都市化のなかで移民“問題”が叫ばれていたのだけれど、今読むとなんだか、人間に線を引いて序列をつけようとする、不穏な空気が漂う現代日本の寓話のようにも見えてきた。うろんな客の可愛らしい瞳が、不条理を不条理として、あるがままに受け入れる優しいまなざしでありますように。
(選者・小森真樹)
 

ポピュリズム選挙の今を考えるーー『選挙と鬱』評(青柳拓、2025年)

青柳拓監督の『選挙と鬱』を観た。お笑いコンビ「浅草キッド」の水道橋博士参議院選挙に出馬して国会議員になり、そしてその中で持病の躁鬱病が発症したために議員辞職に至る経緯を追いかけたドキュメンタリー映画だ。
 政党政治が不信と批判の的となり、デマも辞さない人気商売がその成否を決めるーー善かれ悪しかれ、ポピュリズムで変化する「選挙の今」を感じさせる映画となっている。今回の参院選投票日が近づくにつれ、実感はますます高まる。 
 
 
「あなたがわたし、わたしがあなた」でスラップ訴訟へ対抗する
 水道橋博士が出馬し、当選後に議員を辞めたことは、なんとなく記憶に残っている方も多いかもしれないが、彼の主張や、政治を通じて実現しようとしたことについては、あまり知られていないかもしれない。
 第一に、SNSでの発信をめぐり、日本維新の会の代表・松井一郎から起こされた訴訟が、恐喝的なスラップ訴訟であるとして、それに対抗するための法整備を訴えた。いわゆるシングルイシューで選挙戦を戦い抜き、タレントとしての知名度SNSでの選挙戦が功を奏して、れいわから比例でギリギリ当選となった。
 それと同時に博士が訴えたのは、「民主主義の姿勢」そのものである。この映画ではそれが強く打ち出され、モハメド・アリの「Me, We」というフレーズから導かれた「あなたがわたし、わたしがあなた」という言葉が、代表制民主主義を訴える選挙フレーズとして心に迫るものとなっている。
 
ロードムービーと選挙ゲーム
 映画は、監督の撮影プロセスも含めたロードムービーのように構成されている。博士と番組をやっていた映画評論家・町山智浩との縁で、出馬後すぐにドキュメンタリー撮影をしないかとの誘いを受けた監督自身の独白から映画は始まる。博士のトーク番組、SNS上での「声かけ」「公募」など一連の流れは、ドキュメンタリー制作のプロセス自体を公開していく一種のパフォーマンスと見てよいのだろう。
 芸能界で博士と働いていた人たち――つまり、現場をこなし、忙しく働くことには長けているが、選挙に関してはまったくの素人たち――が集まり、党からの公式な支援はほとんどないままでも、選挙という「祭り」の場をそれなりに盛り上げていく。さすがは芸能という「祭りのプロ」である。
 訴えていたもの以外にも博士にはそれなりの政策もあるのかもしれないが、この映画ではそれらの痕跡はほとんど映されない。応援している人たちは政治的目標やイデオロギーによるものではないことが強調され、個人的または仕事上の付き合いで支援しているのは明白である。政党のボランティアスタッフや他候補者とのやりとりも、政策面についてはほとんど描かれない。
 芸能界の支援者たちは、真面目な候補者なら問題視しそうなおふざけをおこないながら(TwitterB’zファンと政治勢両方の怒りを買って炎上したというエピソードなど)、博士自身もだんだんとノッてきて、ふざけながら楽しそうに場を演出していく。博士は選挙の途中から「投票しない50%にどうやって届けるか」と言葉にし始め、“毒蝮三太夫的”と名づけられている人懐っこいチャーミングなコミュニケーション・スタイルへと変化していく。
 その結果、これら大衆の支持を得ようとするポピュリズムの方法は、実際に成果を上げる。同時にそれは、この映画の魅力にもなっている。
 冒頭から終始、レトロなビデオゲーム的演出が施されているが、選挙カーというバンドワゴンを使ったロードムービーの演出とあわせて、「選挙は楽しいゲーム」なのだという物語として編まれている。
 
イデオロギーなきゲーム、当選する議員の鬱
 このゲームが「楽しくない」ものへと一転するのが、映画後半で明らかになる鬱病の発覚である。
 れいわ新選組は「左派ポピュリズム」とも評されることがある。博士は、「ポピュラリティをつくること」を商売とするタレントという職能と知名度をもって、ポピュリズム政党の一員として選挙制度のなかで成果をあげていく。しかしこの映画の前半で描かれる、見た目には「楽しい」選挙活動とは裏腹に、博士が内面で抱えていたのは精神的な圧力だった。
 映画はその圧力を劇的に描くことはせず、物語のなかでも明確な転換点は設けられていない。それは鬱というものが、明確な「原因」によって説明しにくい性質とも関係している、監督の誠実さでもあろう。鬱とは「物語」にできないものなのだ。だが、これは明らかに現在の選挙制度下において議員となるために候補者が犠牲として払わなくてはならない過大なプレッシャーを示している。政治家が社会のメンバーを代表するものならば、過度な犠牲を払わなくてはなれない役割であるべきではないだろう。
 こうした隙にポピュリストは滑り込んでいく。皆が“やりたくない”仕事であるが、そこには権力や金銭を得られる構造は整っている。
 人気取りに長けた、耳触りの良い文句を掲げる候補者や政党が選挙戦では現れる。今まさに、参政党を代表格に “奪われている”という人々の嫉みにつけ込んだ排外主義が一部の民衆を熱狂させている。
 そして同時に本作が描いた、“空中戦”たるSNSが人々を信じさせ心を動かす構造もまた、ガーシー議員やNHK党・立花孝志、さらには兵庫県知事選の事件や石丸伸二「国民の道」などと地続きだ。これらきわめて同時代的なテーマとして本作は見ることができる。
 2019年に大島新監督が『なぜ君は総理大臣になれないのか』で立憲民主党を例に描いたのは、「政党内出世競争」によって民意が反映されないという問題とは別の民主主義の課題である。さらに大島は『香川1区』で腐敗したメディアや縁故主義支配、組織票という無関心な日本の民意が生んだ歪みを描いているが、それは本作へとつながっていく。
 「あなたがわたし」というフレーズを、不特定多数とのコミュニケーションの中で成立させるには、博士はあまりにも真摯だったのかもしれない。ある特定の個人が「象徴」として機能するには、それを支える複雑な構造が必要となるし、それを受け止める個人にはとてつもない圧がかかる。少なくとも、今の日本の国政はそのような構造にある。
 ポピュリズムが跳梁する現代の政治状況、人間が「コスパ」や「合理性」で数値化され、商品として扱われる社会のなかで――たとえば終盤に描かれたように、ウーバーの配達人が見ず知らずの客に怒りをぶつけることができてしまうような――本作は、そうした現代社会の空気と個人の心身が交差する地点を静かに描いている。
 参院選の選挙期間開始とほぼ同じ時期に都内では公開され、初日に観た。選挙が進むにつれ、この思いはさらに確信に近づいている。これほど心が躍らない確信もない。
 
🔗 選挙や政治関係の映画などの過去記事や寄稿記事をまとめています。併せてお読みください。

 

 

函が開かれているーー「多孔的なアーカイヴ・探照」彭瑞麟、藤田嗣治、藤井光(思文閣銀座)

藤田嗣治による戦争画一点、日本による占領期の台湾に活躍し渡日もした台湾の写真家彭瑞麟(ペン・リュウリン、と表記できるのだろうか。英:Peng Ruei-linとある)の写真、そして日本の現代美術家藤井光がペンのアルバムを元に作った新作を含む作品で構成される。銀座駅前にある画廊思文閣の小さな地下空間を会場に14点の作品が展示されている。私的なアルバムにしまわれていたペンの写真群、近年まで発見されていなかった藤田の《シンガポール空爆の図》ーー「函が開かれている」ことに、過去よりは未来を感じさせる展示だった。
 
多孔的なアーカイヴ・探照
藤井 光 藤田 嗣治 彭 瑞麟
キュレーション 大坂 紘一郎、郭 昭蘭
2025.6.6 Fri. — 2025.6.28 Sat. 思文閣銀座

「細野さんと晴臣くん」展@立教大学ライフスナイダー館

母校でやっている「細野さんと晴臣くん」展へ。
 細野氏が立教出身だからという縁であるのは間違いなかろうが、なぜここで企画が行われていたのかはまだよくわかっていない。
 展覧会では、とくに立教での学びが細野氏のクリエーションと結びつけられているわけではない。音楽、映画、漫画といったカテゴリーから細野氏の学びのルーツがひもとかれていて、あんまりこの場所との関係が見えないのでそれらは異国のテーマがつけられたアミューズメントパークのアトラクションのように見える。ぼく自身、この場所で大学生として時を過ごしたり、教員として教鞭に立っているときには「立教大学で学んでいる」などとは意識しなかったが、ここで学び、なにかを作っていたということの意義をーーきっと思い返しながら記憶を改竄する形でーー意識させられるような展示だった。
 いっぽう展示のルックを見れば、蔦なる建物から木目の展示什器まで「立教」のエステティクスは生かされている。サイトスペシフィック、つまりこの場所でしか成立しなそうでもあり、どこにでも成立しそうなものでもある。細野氏のトロピカル三部作のように、「エキゾチカ」なイマジネーションを時間の縦軸に立ち上げ直した立教ユートピア的なもののようにも見えた。

 

 美術畑からは出てこなそうな展示の工夫がいろいろ盛り込まれていて、今準備している展覧会は「美術的な文脈から離れること」を一つの主題としていることもあり、展示方法について刺激を受けた。
 その日の朝耳にした、ブライアン・ウィルソンの訃報を思い出しながら展示でも1番手前に置かれていたLPのビーチボーイズの譜面をSpotifyで聴きながら、キャンパスを歩いた。


https://www.rikkyo.ac.jp/news/2025/05/mknpps0000036yac.html

【コメント+発表要旨】アメリカ学会「部会 C    アメリカ文化研究は、今―アメリカ文化をどう教えるか?/文化でアメリカをどう教えるか?」

アメリカ学会の第59回年次大会に参加して以下の部会でコメンテーター(「討議者=discussant」)を務めました。

 

部会C「アメリカ文化研究は、今 ー アメリカ文化をどう教えるか?/文化でアメリカをどう教えるか?」討論者担当、北海道大学、2025年6月1日

 

以下、4名の発表の要旨に、私がコメントしたものの草稿が続きます。主題も研究それ自体ではないということもあり、学会発表が原稿などの形で残りにくいものなので参照用にここに記録しておきたいと思います。

要旨全文は以下:

https://www.jaas.gr.jp/annualmeeting/conference

 

【部会 C    アメリカ文化研究は、今―アメリカ文化をどう教えるか?/文化でアメリカをどう教えるか?】

20 世紀は「アメリカの世紀」とも呼ばれ、ハリウッド映画産業の世界的流通に代表されるように、アメリカ文化は世界の文化交渉の中でも特権的な位置を占めてきた。現在もなお世界の中でのアメリカ文化は特別な位置にあり続けているが、若い世代におけるアメリカ文化に対する関心は下降の傾向にあり、表象文化領域の学問的制度化が進むなどアメリカ文化研究を取り巻く状況も変容している。

こうしたカルチャーのあり方、大学のカリキュラム制度の現況をも参照しつつ、それぞれの研究者が置かれているアメリカ研究の立場から、アメリカ文化は今、日本の大学カリキュラムにおいてどのように教えられているのかを様々な学問領域を横断する形で展望してみたい。また一口にアメリカといっても、広大な領土を有するアメリカの地域文化をどのように捉えることができるだろうか。広大な領土を有するアメリカを便宜的に分ける際に、東部、南部、中西部などのセクションは、共通の風土、精神性、政治的傾向などを共有する単位として、広大で多様なアメリカを理解するのに役立っている。しかし、都市化と郊外化が進展した現代では、同一州内でも住民の政治経済的傾向が異なることも指摘される。セクションに分けアメリカを分析することの利点と課題についても検討したい。

カリキュラムを含む教育実践の観点から、日本の大学におけるアメリカ研究の最新の動向を探ることを目 指す。メディア論、ジェンダーセクシュアリティ研究、エスニシティ/多文化社会論などの分野において、文学や映画、ドラマ、音楽などのコンテンツ文化ははたして教育教材として有効であるのかという観点も主要な論点の一つとしたい。かつて文学は思想史・精神史の変遷を辿る上で有効な教育の題材であったが、現在ははたしてどのような状況であるのだろうか。複数の分野を接続・横断するインターセクショナリティの可能性、教育制度面での課題についても検討する。

 

司会:中垣恒太郎(専修大学

討論者:佐々木優(専修大学)・小森真樹(武蔵大学

報告者:

馬場聡(日本女子大学)「女子高等教育機関におけるアメリカ研究カリキュラムの変遷と展望――副専攻プログラムの可能性」  

丸山雄生(東海大学)「ヴィーガンスタディーズの教育と実践:(反)肉食から考えるアメリカ文化」  

北田依利(東京大学・東京カレッジ・講 )「 日本で・日本語で、アメリカ史を教えるための目標設定とアプローチの事例報告」  

地村みゆき(愛知大学)「先住民視点から紐解くアメリカの歴史と社会:一般教育科目『民族と文化』における授業実践」

 

馬場聡(日本女子大学)    「女子高等教育機関におけるアメリカ研究カリキュラムの変遷と展望――副専攻プログラムの可能性」

この報告では報告者が勤務する日本女子大学文学部英文学科を例に、アメリカ文学・文化分野のカリキュラムの変遷を概観したうえで、近年設置したグローバル教養型副専攻プログラムの可能性について検討する。 日本女子大学におけるアメリカ研究プログラムは、日本の女子高等教育機関に先駆けて 1962 年に、当時、学長であった上代タノ(英文学者、平和活動家)を中心に発足した。従来、英文学の枠組みのもとでアメリカ文学教育がなされていたが、このプログラムでは「学生に多方面からアメリカ合衆国の社会と文化を理解させ」、さらには「アメリカ研究者を育てること」が目的とされ、新たにアメリカ哲学、アメリカ経済、アメリカ政治、アメリカ史等の専門科目が置かれることとなった。設置にあたって、アジア財団を筆頭に、フォード財団、日米協会等の支援を受けていることからも分かるように、このプログラムは冷戦期アメリカのエリア・スタディーズの影響が色濃い。

こうした経緯で刷新されたアメリカ分野のカリキュラムは、マイナーチェンジを繰り返しながらも、その大枠は継承され続けてきた。ところが、アメリカ研究プログラムの設置から半世紀以上を経た現在、既存のカリキュラムと学生のニーズとの間に少なからぬ乖離が顕在化しはじめた。具体的には、近年、「アメリカ」という地域に対する憧れや関心から、その地域の文学や文化を学びたい、と考える学生が減少している。一方、「英語」を使って「グローバル」に活躍することを将来の目標とし、その目標を達成するための学びを期待する学生が増加している。こうした状況をふまえて、既存のアメリカ文学、および、アメリカ研究カリキュラムと並立する形で 2024 年度より新たにグローバル教養型副専攻プログラムを設置した。この副専攻プログラムと既存のアメリカ分野のカリキュラムとの相補的な関係性を軸に、アメリカを脱中心化した視点からの学びの可能性について議論したい。

 

丸山雄生(東海大学) 「ヴィーガンスタディーズの教育と実践:(反)肉食から考えるアメリカ文化」

ヴィーガンスタディーズは 2010 年代後半から本格化した新しい学問領域で、ヴィーガニズム(肉をはじめとする動物性のものを食べない思想・行動)を、単なる食の選択や好みではなく、人間と動物の関係をめぐるイデオロギーとして構築しようとする。健康、栄養、安全などに関するフードサイエンスとは異なり、食の政治性を対象としている。先行的な分野としてフェミニズム、動物の権利論、批判的動物研究(CAS)から直接の影響を受けており、近代以降、資本主義とグローバリゼーションが作ってきた食のあり方を問い直し、(人間を含む)あらゆる動物の生の搾取に対抗し、食の正義(food justice)を追求しようとする。よって、知識や理論にとどまらず変革のための実践と行動を重視する点を特徴とする。また、近年の動物をめぐる議論の発展とともに、ポストヒューマニズム、マルチスピーシーズ人類学、気候変動、批判的人種理論など隣接する諸分野と相互に参照しながら研究が進められている。

本発表では、ヴィーガンスタディーズの成果に基づき、その思想をアメリカ文化研究に応用する可能性を検討したい。報告者はいくつかの授業でヴィーガニズムを取り上げ、食という身近なトピックに注目することで導入段階を容易にするとともに、食からアメリカの歴史や文化に接続してより深い理解を促すことを試みてきた。たとえば、肉食とジェンダーの関係について、キャロル・アダムズらによる理論的研究と、映画や視覚表象の分析を交差させることで、肉食の特権性やそれが支えてきたいびつなジェンダー規範を批判的に理解することが可能だと考える。こうした授業内容を共有するとともに、そこで得られた知見と課題についてパネルやオーディエンスと議論したい。また、ヴィーガンスタディーズが知識の増大だけでなく、食の正義の推進を目指す研究領域であることに鑑み、教室での座学を超えて、履修者自身の経験として実践することも重要な課題として検討したい。

 

北田依利(東京大学・東京カレッジ・講) 「日本で・日本語で、アメリカ史を教えるための目標設定とアプローチの事例報告」

本報告「日本で・日本語で、アメリカ史を教えるための目標設定とアプローチの事例報告」では、2024 年度に東京都内の二つの四年制大学で非常勤講師として、通年でアメリカ文化・アメリカ史を教えた事例を報告する。春学期はアメリカ本土の通史(1619 年から 20 世紀後半まで、地域は東・西・南部などに最低 1 回は触れた)、秋学期はアメリカ帝国のアジア太平洋地域における覇権(19 世紀中頃から 20 世紀末まで、ハワイ・フィリピン・日本・朝鮮など +日本帝国)を教えた。週ごとにトピックをきめ、歴史的背景などを講義し、授業内に一次資料をグループでディスカッションしてもらう形式で行った。また、トピックに関連した論文か研究書の 1 章を予習のために毎週アサインし、学術的な文章を早く正確に読むかなどのスキルを身につけてもらうことにも気を配った。こうした経験をふまえて、授業目標をどのように設定し、その目標設定のためにどのように授業内容や課題を設定したか、といった経験談を紹介する。非常勤講師である報告者は、アメリカ文化やアメリカ地域への学生の関心を高めなければならないというような義務からは自由であってきた。むしろ、アメリカという事例を通して、学生たちが資料を読み解き文章を書きながら、日本にも通底する社会の諸問題を批判的に捉える力を養えるように、授業を運営してきた。同様の関心から、アメリカ地域への基礎的な知識を学生に身につけさせることを意図した、地図などを使用した小テストも一切実施していない。この事例を通して、部会のテーマである、「アメリカ文化をどう教えるか?/文化でアメリカをどう教えるか?」という問いを検証してみたい。

 

地村みゆき(愛知大学) 「先住民視点から紐解くアメリカの歴史と社会:一般教育科目『民族と文化』における授業実践」

生成 AI の発達が著しく、情報過多な現代社会において、入手した情報の確かさを自分で判断し、選択し、利用していく力が求められている。その中で、多種多様な学生が受講する大学の一般教育にできることは大きいと考える。

本報告では、先住民史を研究する報告者が担当する一般教育科目、「民族と文化」における教育実践例を紹介する。「民族と文化」は、アメリカ合衆国の歴史と社会をポストコロニアルな視点、主に先住民視点から紐解く授業である。履修者の中には、アメリカ合衆国で起こっていることは自分とは無関係なことと捉えている学生も多い。そのため、授業では、アメリカ合衆国の諸事象を一つの事例として扱い、日本の諸事象と比較検討している。そして、アメリカで起きていることは決して対岸の火事ではなく、身近な問題であることを示している。そこで意識しているのは、対話を通して、学生に、これまで不可視化されてきた人びとの存在や考え方に気づかせること、そして、その気づきを通して現代の日本に生きる自分たちのあり方を見つめ直す機会を与えることだ。

授業で扱うテーマは「アメリカは『新世界』だったのか」、「インディアンとはだれのことか」、「アメリカ・メキシコ国境の壁は必要か」、「なぜ『民族』・『人種』のモノマネはタブー視されるのか」、「オスカーが真っ白だと言われた理由」など多岐にわたる。報告では、好評だった、YouTube 動画や映画、CM 等の映像を利用した授業回の実践例を一部紹介する。そして、この数年間、報告者がそうした授業を行う中で得られた手ごたえと、見えてきた課題に言及したい。さらに、学生が期末レポートで扱うテーマの傾向と受講後の学生の反応に触れ、その後のパネルおよびフロアとのディスカッションのきっかけとしたい。

 

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小森真樹によるコメント

先生方、ご発表をどうもありがとうございました。発表構想をいただき頭に上りましたのは、学生にとってアメリカ合衆国は、”知ってるようで知らない国”であるというジレンマです。

 たとえば、先の大統領選、またその結果誕生したトランプ第二次政権について、選挙中や就任式、その後の日々の大統領の動向まで日本国内でも連日の報道が活発になされています。直近のバイデン政権と比較してもその分厚さは明らかで、したがって、重要な局面で「何が起こったのか」に関しては日本社会で比較的共有されるようになっています。

 しかし、他の国々と比較すればアメリカ社会や政治の情報は分厚いように思える一方で、授業での学生の反応を見ていると、その事象に対する批評的な視座や背景、歴史がむしろ共有されていないという印象を抱きます。むしろ情報があるからこそ「知ってるつもり」になっている、こうしたステレオタイプ的な理解を解除していく必要がある、そうした一種のジレンマがあるのではないかと思います。

 こうした感触は、私自身教鞭を取る身として一層強く感じています。武蔵大学の所属学部は、専門性はそれほど高くない「英米文化研究」という枠組みの学科です。今回の先生方の発表からは、教育の事例や制度設計について優れた参考例をご教示いただき、また大きな刺激をいただき誠に感謝しております。

 この、実は強い日米文化の結びつきを可視化することと、それらを学ぶ動機付けを行うことが重要だと感じています。先生方からお示しいただいたトピックを振り返ると、実際にはそれぞれは日本社会の問題へとつながっていることは、ここにいらっしゃる皆様には自明かと思います。地村さんがご専門とされる先住民教育は、まさにこの北海道とこの地のアイヌや、琉球などの脱植民地化の問題、また在日コリアンなども含めて人種差別の問題につながっています。丸山さんがご紹介いただいたようにヴィーガニズムは「食文化や男性性」という日本社会の主流の価値観を形づくる大きな領域です。北田さんは授業実践で「移民労働・公民権フェミニズム」などのアメリカ研究の論点を在日コリアンや戦争花嫁などのトランスナショナルな視座につなげて示してくださいましたし、馬場先生がアメリカ研究プログラムの出自を米国の財団にあるとご紹介くださったように、一種のポストコロニアリズム的状況下における日米文化外交の影響は、現在の日本社会へと通じています。

 日本社会に暮らす誰しもにかかわる「アメリカ」へのステレオタイプを解除するためには、どのような方策が有効なのでしょうか。またこうした価値観の問題を扱い際には、ときに学生からの情緒的な反発や抵抗感にも出くわしますが、これらには先生方はいかに取り組まれているのでしょうか。

 こうした問題意識の上で、ここからは個別にコメントをしていきたいと思います。

 いくつか先生方に質問をさせていただくことで議論の糸口にしていただき、討論者としての役割を果たしたいと思います。できる限り、各発表を横断するような質問となるように心がけます。すべてに答えていただく必要はございません。選んで答えていただいたものを今日の討議のきっかけにしつつ、残りは思考の糸口にご活用いただければ幸いです。

 

馬場発表(日本女子大学アメリカ研究カリキュラム)

  • 「女子大学」の制度的特殊性

女性のアメリカ離れ、というご指摘もありましたが、プログラムの基盤が「女子大学」というジェンダー的に特色がある点は、実際に運用する場合にも大きい影響を与えると思われます。この点について計画時にはいかなる議論がございましたでしょうか。また、運用時になにかお気づきの点はございますか。

  • グローバル・リーダーシップ・プログラム(GLP)の可能性

このプログラムが「グローバル化」だけでなく、脱植民地化やアイデンティティの多様性を重視する学びにどのように変化し得るか?たとえば、先住民や移民の視点を取り入れることで、どのような新たな教育枠組みが作れるか?(発表内でありました、「Gender Equality, and Human Rights」の授業などの取り組みや学生の反応などをご紹介いただくのもよいかもしれません)

  • 他言語と「アメリカ研究」プログラム

アメリカ研究が「英語圏文化」の枠組みを超えるためには、他言語(韓国語、スペイン語、中国語、日本語など)でのアメリカ理解や受容をどのように教育に組み込むことが可能か?たとえば、学生の関心が高い韓国なら、韓国国内の文化、韓国系アメリカ文化、そして日本・韓国・アメリカの3地域の関係についてなど、トランスナショナルな枠組みをいかにプログラムに導入できますでしょうか。

 

北田発表(権力構造から見るアメリカ史教育) 

同じく北田さんにも言語に関する質問をお聞きしてみたい。アメリカ史を日本語で教えるという営みは、単に翻訳の課題にとどまらず、アメリカという国を「単一の国家主体」ではなく、先住民・移民・言語コミュニティ・ディアスポラといった複数の語りの重なりとして再構成する契機になると思われます。トランスナショナルフレームワークを強調された授業展開で、さらにこの複数の言語を用いるとすれば、どのような実践が可能でしょうか。言語による「多層的アメリカ」の語りについていかがお考えでしょうか?

マイノリティへの加害や彼らの権利を強調する歴史の語りに対して、いかに批判的思考を培う文脈であっても、「イデオロギー的」「なぜ主流の歴史は教えないのか」といった反発がおこる可能性があります。その場合、それに対してどのような説明や設計をされますでしょうか。とくに、「教科書的な知識」と「問い直しとしての歴史学」の違いにあまりピンとこない学生への導入・糸口はどのように設計されていますか。問い直し自体への懐疑的な姿勢、「なぜわざわざ批判的に見る必要があるのか」という反応への応答として、実際に学生が「自ら問い直したくなる」ような教材や議論設計の事例をご紹介いただけるのもよいかもしれません。

 

丸山発表(ヴィーガンスタディーズ)

  • 学生の偏見・ライフスタイルへの階級的反発 

私の学生への観察からは、ヴィーガンに対して、「思想」や「ライフスタイル」の押しつけやエリート的実践と反発を感じる学生が一定数いると考えられます。こうした倫理的主張に対する反発にはどのように応じておられますでしょうか。また、日本では一般的なものである肉食文化的な家庭環境や、宗教や経済的事情によりヴィーガン実践が難しい学生に対しては「実践課題」をどのように設計し、包摂的な議論に導く工夫をされていまでしょうか。

本発表ではヴィーガニズムについて「反肉食ライフスタイル」としての文脈を強調しながらご紹介してくださいましたが、映画やドラマの中で描かれる肉食、動物性食品もまた同様に、ステレオタイプとしてある種の「アメリカ性」を象徴化しているように思います。ステーキやハンバーガーといった肉料理、サンクスギビング七面鳥や団欒の食卓が「ファミリーバリュー」や、流麗な筋肉などの身体表象は、ご指摘の通り、ジェンダー、階級、人種といった問題と結びつきながら「アメリカ」を表象してきたと思います。こうした点で肉食に関する「映像表象の政治性」を学生とともに読み解く際、どのような問いかけや分析枠組みを重視されていますでしょうか。>他の先生方も映像資料を豊富に使われていると思いますが、「アメリカ表象と映像の政治性」を各領域で考えるといかがでしょうか。

これらの質問とも関連しますが、たとえば「反ヴィーガン」的なメディア表象や言論への批判的読解を含めることで、言説への批判的リテラシーを高める方法なども効果的かと感じます。「反ヴィーガン」についての教育についての可能性についてはいかがでしょうか。

 

地村発表(先住民視点からのアメリカ史)

  • 先住民視点を通じたグローバルな共感形成

先住民の経験はアメリカ国内に限らず、他の地域の植民地支配や民族抑圧の歴史と共鳴します。たとえば、アイヌ琉球などの歴史とも関連づけることで、グローバルな視点で共感を育む授業展開はこの授業を元に可能でしょうか? 具体的なアプローチがあれば教えてください。

アメリカ先住民というアイデンティティのなかにも、ラテン系であったりフランス系など、単一のアイデンティティに収まらないヘリテージーーつまり歴史的経験や文化の多様性があります。日本ではよりステレオタイプ化されやすいと思われる先住民の多様性に関して、実践例があれば教えてください。

  • 「差別はダメ」だけに終わらない授業と「対話」の強調

結局「差別はダメ」の印象に終わってしまうという課題を先生もご指摘されていましたが、ここには、大量の授業数の履修を事実上強制的に課されてしまうカリキュラムの特性も背景にあり、その結果一言で説明できる印象しか授業から得られない学生が多いという、まさに構造上の課題もあると感じます。ここに、先生が取り入れておられた「対話」の観点が活用できる可能性はありますでしょうか。

 また、他の先生方にもお聞きたいのですが、こうした課題にカリキュラムなどの制度設計によって対策できそうなど、お考えがあればお聞かせください。

 

以上のコメントと質問から、各発表が扱う「アメリカ」を単一のステレオタイプにとどまらず、多様な視点から再考するための視点を議論するきっかけになればと思います。

レビュー「猪熊弦一郎博覧会 EXPO INOKUMA」丸亀・猪熊弦一郎現代美術館

丸亀の猪熊弦一郎現代美術館の「猪熊弦一郎博覧会 EXPO INOKUMA」へ。五十嵐太郎さんとのコラボというのもあり結構建築目線が強調された総覧的な語り口だが、ミュージアム論としても十分読めそうな展覧会で期待通りだった。戦後の高松美術館の歴史を考えることの重要性と、展覧会が強調する通りに瀬戸内国際芸術祭なるものとつなげることの妥当性など考えるべきトピックは多い。実現しなかった芸術家村の話もあって、今日そっちを諦めてこちらに来たのだけど、今まさにやってるWHOTEHOUSEの阿部優哉くんと西美の新藤淳さんのトークとも不思議と共鳴。

 

www.mimoca.jp

猪熊弦一郎博覧会
EXPO INOKUMA
2025年4月12日(土)-7月6日(日)

主催
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、公益財団法人ミモカ美術振興財団、独立行政法人日本芸術文化振興会文化庁

建築史監修
五十嵐太郎東北大学院教授)

アートディレクション
菊地敦己