【展覧会・講演】美大じゃない大学で美術展をつくる vol.1 藤井光〈日本の戦争美術 1946〉展を再演する(3/11-15)

論文「ミュージアムでキャンセルカルチャーは起こったのか?」を『人文学会雑誌』に寄稿しました

 「ミュージアムでキャンセルカルチャーは起こったのか?」という論文が、武蔵大学人文学会の研究紀要から刊行されます。ふざけたタイトルに見えるかもしれませんが学術論文です。以下からDLできるようにしてあります。

小森真樹「ミュージアムでキャンセルカルチャーは起こったのか?ーー脱植民地化と人体のアイデンティティ政治をめぐる博物館倫理」『人文学会雑誌』武蔵大学、55巻2号、2024年。

 フィラデルフィアにある医学博物館ムター博物館で昨年起こった炎上騒動を時事的に記録する意図も込め取り上げています。脱植民地主義を旗印に人体コレクションの扱いなどについて倫理面で同館が実施した改革は、スタッフやファンなど旧体制の支持者からは「キャンセルカルチャー」などと批判されて全米規模で報じられるほどの大きな騒ぎへと発展しました。

 この一件はジャーナリズムでは「意識高い系改革派VS現状維持派」などと説明がなされてきたのですが、実はこの現象は、長らく続いてきたミュージアムや人文学、ひいては社会全体の「倫理」変化の歴史のなかにおいて見たほうが適切に理解できるのではないかと問題提起しています。

 博論研究の頃から追いかけている同館は定点観測を続けている調査事例でもあり、また、過去に住んだ街のなかでも最も思い入れが深いフィラデルフィアの問題としても捉えられるもので、色々と「自分ごと」感がある話ということもあって力が入れて書きました。

 

 

「2023年極私的映画十選/The 10 Best Movies of the Year ’23」を開催したので振り返り

 年末になるとベストやランキング云々などの記事や特番がたくさんあって楽しい。今年は機会をつくってちょっと整理と振り返りをやってみた。この一年はシネフィルの学生と出会い映画談義を続けてきたこともあり、「2023年極私的映画十選/The 10 Best Movies of the Year ’23」と題して、観客のいない二人だけのトークイベントを実施した。たいへん楽しかったので備忘録を兼ねてここに。

 

極私的映画十選
  1. キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン Killers of the Flower Moon(マーティン・スコセッシ Martin Scorsese 2023)
  2. 過去負う人(船橋淳 2023)
  3. パール Pearl(タイ·ウェストTi West 2023)
  4. 山女(福永壮志 2023)
  5. 劇場版センキョナンデス+シン·ちむどんどん(ダースレイダープチ鹿島 2023)
  6. ファースト·カウ First Cow(ケリー·ライカート Kelly Reichart 2022)
  7. アシスタント+ジョンベネ殺害事件の謎 The Assistant + Casting JohnBenet (キティ·グリーン Kitty Green 2019/2017)
  8. レッド·ロケット Red Rocket(ショーン·ベイカー Sean Baker 2021)
  9. フレンチコネクション The French Connection(ウィリアム·フリードキン William Friedkin 1972)
  10. ノープ Nope(ジョーダン·ピール Jordan Peele 2022)

 

 この十年くらいの鑑賞リストも眺めてみると、2023年は展覧会よりけっこう映画を観ていた印象。

  • 全部で311作。劇場で52作鑑賞。
  • 映画では、長編フィクションが227本、長編ドキュメンタリーが25本、長編アニメが2本、短編フィクション2本(YouTubeで流し観したものはカウントしてなかったと気づく)、短編アニメ6本、舞台映画3本。
  • ドラマシリーズでは、フィクション41作(一部鑑賞含む)、アニメ1作、リアリティショー1作、スポーツショー1作(Toy Story特番なのでアニメでもある)。

選評とイベントの振り返り

 「極私的」というのは、イマココで楽しんだ作品、コンテクストありきで作品を選ぶという意図でつけたもの。作品の良し悪しとは別に「いま何かを考えるのに大切だと感じる」という点で選んだ。公開時の「祭り」への参加感覚はひとつの要因で、クラファンで応援した「センキョナンデス」「シン・ちむどんどん」や「過去負う者」はその意味で楽しかった。時事問題やライフイベントありきの感覚も大きな基準。今後鑑賞しつづけそうな作品にも出会えた。公開年は関係ないとしたけど、予想以上に今年劇場で観たものが多かった。
 アメリカ映画が圧倒的に多い。選挙や政治系ドキュメンタリーは良作の豊作年だった。意外にドラマシリーズを多く観ていた。配信形式が多様化して3時間くらいのドラマの「ミニシリーズ」だと「映画」との区別が曖昧。YouTubeでも意外な良作があり、流し見してて記録してなかったなと気がついたり。流通やメディア形式の多様化も改めて実感する。
 数年少しずつ進めているハリウッド映画史をなぞる鑑賞の一環で、今年初頭からはとくにHollywood Renessance、New Hollywood(アメリカン・ニューシネマ)の作品をよく観た。その前後の映画史について線で理解できたような感じがするのと、近年の作品が引用したり下敷きにしたり(しばしばつまらないEaster Eggパロディとしている)ものとして、それらの古典が見える感じもする。ハリウッド映画は良かれ悪しかれ歴史的文脈が強い。
 主な仕事だった執筆中の書籍のテーマとの関係で、「社会批評性と、娯楽性や芸術性のあいだの相剋」について考える素材となる作品に意識が向いていた。後者つまり「作品としての質」を蔑ろにした時、それは単なるぼやきだったり、よもやイデオロギー的な党派性へと堕ちていってしまう。そうした作品は不健全なコミュニケーションを広げるだけだろう。ひと言でいえば、公共性・民主性がたいせつ。全体としてはこんなことを考えていた。
 また映画鑑賞という行為も伝える目的で、授業では話題作を積極的に扱うことにしたので、作品のことを時間をとって考えたり言葉にする機会にもなって、良いフィードバックになった。選評イベントも盛り上がり、アートハウス好きのドラマーGenki氏とのケミストリーもよく、とても面白かった。何かの形で定期化したいところ。
 映画や展覧会などけっこうな数を見るものは記憶が曖昧になるし、年の区切りに振り返ると自省する機会になる。次年度はサバティカルで一年間ずっとロンドンとフィラデルフィアなどにいる予定なので、鑑賞対象もずいぶん変わってくるだろうなあ。

 

選考基準
・今年観た作品。公開年は問わない。複数回目で見直したものも含む
・上映や鑑賞方法は問わない。劇場、配信、各種メディア、4Dなども含む
・「映画」に限る。シーズンもののドラマやドキュメンタリー映画は含まれるが、ジャーナリズム的映像作品は除く(“Movie” or “cinema.” Not “content.“)
・部分鑑賞は含まない。寝落ちした際の睡眠は「鑑賞」の一部とする
・「十選」なので序列はつけない。ベストオブベストは選んでもよい
・他の選者の作品を年末年始の鑑賞のおともに🎬
 
追記:坂井元気氏による10+1選
  1. パーフェクト·デイズ Perfect Days(ウィム·ベンダース Wim Wendars 2023)
  2. The African Desperate(Martine Syms 2022)
  3. ドニー·ダーコ Donnie Darko(Richard Kelly 2001)
  4. SAFE(トッド·ヘインズ Todd Haynes 1995)
  5. TAR/ター(トッド·フィールド Todd Field 2022)
  6. 別れる決心 (パク·チャヌク 2022)
  7. アンダー·ザ·シルバーレイク Under the Silver Lake(David Robert Mitchell 2018)
  8. Rotting in the Sun(Sebastian Silva 2023)
  9. Falcon Lake(Charlotte Lebon 2023)
  10. 女の子ものがたり(森岡利行 2009)
  11. Leave the World Behind 終わらない週末(Sam Esmail 2023)


 タイトル画像は、今年最初に観た作品(=『イージー・ライダー』)とイベントの日までに最後に観たもの(=『Kids Return』)です。
 

(記事リンク追記)公開シンポジウム「ポピュラーカルチャーと政治」でお話しします(ハイブリッド 2024年1月20日(土)14:00)

追記:

 シンポジウム、活況にて無事終了いたしました! 研究者の方だけでなく、一般の方々、複数の大学から学生さんや議員さんまで足を運んでくださったようで感謝いたします。「政治」というものの幅広さ・豊かさの一面を、幅広いオーディエンスにお届けできたことを嬉しく思います。

 

 僕の発表に関連する記事一覧をここでも利用できるようにしておきます。

資料リンク:

https://docs.google.com/document/d/e/2PACX-1vS2KT1fP6QivX-t2nBh0ZPEutimSX8xVhUygY-2G_hvry7apVhQJuxWcMti6qF3hKzG2V-BLr-66xd5/pub

 

 報告は論文として『Rikkyo American Studies』で年度末頃に刊行されることになっています。併せてお楽しみください。

 

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立教大学アメリカ研究所主催のシンポジウム「ポピュラーカルチャーと政治」に登壇をします。渡部宏樹さん、富永京子さんと一緒に、社会運動や政治について文化的な側面から考えます。

 僕の方では、インターネット・ミームSNSが政治・社会運動でどのように使われているのかという点から話題提供をしようと考えています。2021年のアメリカ国会議事堂襲撃事件へとつながるオルタナ右翼やQAnonなどの右派運動や、ジェネレーション・レフトと呼ばれる若年層の左派運動がK-POPを介して世界的に広がる動向などの事例について紹介する予定です。

 ハイブリッド開催で参加もしやすいと思いますので、お気軽にご参加ください。

「ポピュラーカルチャーと政治」

政治は、議会や政党のまわりでのみ進展するわけではない。議会政治の外側に広がる多様な社会運動があり、近年とりわけ注目されるのは、ネット上の動きも含めてポピュラーカルチャーとも渾然となったアクティヴィズムである。起源としての雑誌文化、各種のファンダム、そしてポスト・トゥルース状況下でのポピュリズムから文化・政治のハッキングまで、検討すべき現象は多い。アメリカ大統領選の年をむかえていっそう活性化すると思われるこうした動きを、小森真樹氏、渡部宏樹氏、富永京子氏をむかえてアメリカそして日本の事例に即して考えてみたい。

 


日時:2024年1月20日(土)14:00~17:00

※ハイブリッド型開催(対面・オンライン)

場所:池袋キャンパス 14号館3階 D301教室

報告者:

小森 真樹氏(武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授)
渡部 宏樹氏(筑波大学人文社会系助教
富永 京子氏(立命館大学産業社会学部准教授)
司 会:
松原 宏之(本学文学部教授・アメリカ研究所所長)

www.rikkyo.ac.j

《YCAMオープンラボ2023 もうひとつの学び場》山口情報芸術センター(YCAM)に参加しました

 11/4に山口情報芸術センターYCAM)のトークイベントに登壇しました。館の開館20周年を記念するイベントで、当初から立ち会ってこられたスタッフのみなさんだけでなく、幼少期からセンターを遊び場にしてきた面々も登壇。なんと、小学生時代にイベントの開期延長をもとめて署名活動をおこなったという伝説の猛者も。


 ミュージアム専門家の立場からYCAMの活動について何らかの評価軸を提案することが求められ、次のようにアンサーしました。500年超の長大なミュージアムの文明史を「①あつめる ②ひらく ③つかう→つくる」と特徴づけた上で、ラーニングやアートプロジェクトなどの柱を持ったYCAMの活動をその歴史の先端に位置づけてみました。デジタル技術をつかった「メディアアート」のミュージアムという側面が強調されることも多いYCAMですが、「メディア」の多様化や相対化の歴史としてむしろその活動を捉える理解が適切だと思うし、それは「ミュージアム」という機構の発展史として必然性があるのだというお話です。また、ミュージアム研究」という、より人文学的な学問の体系から同館の活動を意義づけることもねらいとしました。館長の会田大也さんがあいちトリエンナーレ2019のキュレータとして担当した「ラーニング」プログラムをミュージアム論・美術批評から意義づけるという過去の仕事の続編と考えてもいます。↓(pdfで読めます

phoiming.hatenadiary.org

 時間が足りずすこし伝えベタになってしまったと反省していますが、自身でもいっそうYCAMの意義=おもしろさがクリアに見えるようになり、とても刺激的な経験となりました。お招きありがとうございました。

 

 前入りして二日間たっぷり周辺のことを教えていただき、シンポジウムと併せて歴史をつくって来られた皆さんから教えていただく非常に貴重な「学び場」となりました。

 

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山口情報芸術センターYCAM]シンポジウム
YCAMオープンラボ2023 もうひとつの学び場》
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2023年11月4日(土) 14:00-17:00
山口情報芸術センターYCAM]ホワイエ
https://www.ycam.jp/events/2023/openlab/

 

<開催概要>
YCAMは2003年の開館からさまざまなクリエイターたちと協働しながら、メディア・テクノロジーと表現との関係を模索し続けています。また作品の制作発表に止まらず、地域に開かれたアートセンターであることを目指し、地域の人々や来場者と共にアートやメディアリテラシーについて考え、学ぶワークショップやトークイベントを多数展開してきました。
本イベントは、YCAM開館20周年記念シンポジウムとして、2003年11月1日に開館した山口情報芸術センターYCAM]の活動を、学校とは異なる「もうひとつの学び場」として捉える視点から振り返るものです。

 

<3部構成のシンポジウム>
第1部(14:00-14:55):

これまでにYCAMを訪れ、イベントやワークショップに参加してきた参加者の中には、小学生も含まれます。第1部では、小学生の頃にYCAMを訪れていた、山口とゆかりの深いゲストに迎え、その当時のYCAMの様子や現在の活動について話を伺います。

第2部(15:00-15:55):

YCAM設立当時の活動から現在の活動に至るまでの軌跡を知るゲストとともに、これまでの活動を振り返ると同時に、ミュージアムやアートセンターの教育活動について他館の事例なども交え、文化施設が担うことのできる教育的側面や意義について考えます。

第3部(16:00-17:00):

イベントに参加した来場者とともに、小グループでフランクな議論ができる形式でのディスカッションを行います。

 

登壇者(第1部)
岩本いち
木越斎
ミハエル・エムデ
モデレーター:菅沼聖

登壇者(第2部)
熊倉純子
廣田ふみ
小森真樹


モデレーター:会田大也主催:山口市、公益財団法人山口市文化振興財団
企画制作:山口情報芸術センターYCAM (編集済み) 

「大島新『国葬の日』が映す、あいまいな日本の民意」を wezzyに寄稿しました(未公開原稿をここに公開します)

寄稿しました。プロパガンダに陥らない選挙・政治映画の良作を連発している大島新さんの最新作です。民主主義を観察する映画。ここで触れられなかった論点ですが、寺山修司の『日の丸』やPortB高山明の「個室都市」シリーズともつなげて考えるべき映画だと考えています。wezzyにはその部分は省いたのですが、記録のために以下に公開しておきます。

 

「大島新『国葬の日』が映す、あいまいな日本の民意」

wezzy、2023年10月17日

wezz-y.com

 

////////原稿未公開部分//////////

本作を観て、二人の劇作家の作品を思い出した。


 1967年に寺山修司はドキュメンタリー番組『日の丸』をつくった。道端で人々に突然、「日の丸の赤は何を意味していますか?」「もし戦争になったらその人と戦えますか?」などと矢継ぎ早に尋ねて人々の様子を撮影したものだ。同作は同じ2022年、奇しくもオリジナル版から数えて55年ぶりに再制作され、現在の「あいまいな日本」を記録したという点で、『国葬の日』と見事に呼応したものだ。しかし両者には決定的に異なる点がある。『日の丸』のインタビューでは人々が怒りを口にするが、『国葬の日』では自ら公の場に立つ人々をのぞいて「怒り」を露わにする人が出てこないのだ。SNSやネット上に溢れていた、罵詈雑言を交えた「怒り」はどこにいってしまったのだろうか。


 もうひとつは、高山明による「個室都市」シリーズである。ツアー型のパフォーマンス演劇で知られる高山明が主催するPORT Bの作品だ。観客は、ランダムに通行人へ実施されたインタビューのDVDを個室ビデオ店の形式で鑑賞したのち、それが撮影された街のポイントをめぐるよう指示される。初めて制作された2009年の東京ヴァージョンでは、新宿池袋西口公園に設置されたボックスから出発し、街を抜け、地下道をめぐって雑居ビルの一角の「出会いカフェ」へ誘われる。マジックミラー越しに選んだ匿名の人物と会話したあとで、先程の公園を見晴らすことで、この「演劇」は終演する。寺山をシミュレーションないし変奏したと思しき同作のインタビューでは、母語や肌の色や性的指向が異なる人々を含めながら、東京は住みやすい街か、日本は豊かな国なのか、あなたは一体誰なのですか、とたたみかけながら、日本社会で暮らす人々のアイデンティティから「あいまいで多様な日本」を描いている。ここでは、「観るもの」と「観られるもの」の断絶と非対称が強調されている。DVDという映像メディアや性風俗店という形式を借りて、人々の属性のあいだにある経済的・人種民族的・性的に非対称な構造と、それらを断絶し再強化させるメディアの構造をメタ的に内包している。


 こうした劇作家の作品を思い出すことには必然性もあるのだろう、『国葬の日』は体験型の映画である。これを観るすべての人々は、そこに映る誰かと同じように、その1日を過ごしていた。その日の意味を全く意識していなかったとて。観るものは、インタビューされた人々のさまざまな意見や態度に自身との距離感を測ってしまう。大島監督は、「完成版を観て大変困惑した。観た人と困惑を分かち合いたい」と強調する。現実のすがたと「民意」の似姿のズレについて、その「あいまいさ」について対話のフォーラムをつくろうとしているのである。


 映画という形式を採る『国葬の日』には、「個室都市・東京」のDVDのようにスクリーン越しに「見る/見られる」という非対称な暴力性が、絶対的に内在されている。本作には、国葬強行が誤ちであると「正しさ」を説く活動家や、幼少期より安倍氏に強い憧れを抱いて育ち銃殺一週間前に記念写真を撮ったことを真っ直ぐな眼差しで語る青年が登場する。だが観客は、彼らと面と向かい国葬の是非について意見を交わす必要はない。そこで起こり得る、きまずさや戸惑い、敢えて言えば、面倒臭さもまた、画面越しの鑑賞者は免除されている。

 

『クリード 過去の逆襲』評 「ロッキー=クリード」シリーズに見る四つの「再生と継承」

ネタバレ記述アリ〼

 

 「ロッキー」および「クリード」シリーズの最新作『クリード 過去の逆襲』(原題: Creed III)を観たので備忘録。「再生と継承」というキーワードから四つに分けて振り返ってみたい。

1.ロッキーからクリード

 はじめにロッキーからクリードへの継承があった。
 ライアン・クーグラーの映画監督・製作者としての成功譚は、スタローン=ロッキーのそれに擬えられる。
 シルベスター・スタローン(Stallone)は売れない俳優・映画監督時代に『ロッキー』の脚本を描いた。自身を主演キャストとすることを条件に破格の値段で脚本を販売し、映画は成功を収めた。スタローンの私生活やキャリアの背景が作中の物語に幾重にも重ねられている。「イタリアの種馬=Italian Stallion」というリングネーム主人公ロッキー・バルボアは30代を迎えた「晩年アスリート」であり、イタリア系移民というフィラデルフィアの歴史に根ざした「二級市民の白人」だ。この街は工業中心の経済がさびつきつつある、昔の首都「フィラデルフィア=兄弟愛の街」だ。ベトナム戦争公民権運動やカウンターカルチャーを経て1950年代の「アメリカン・ドリーム」の神話が翳りを見せたこの時期、ロッキーは「アメリカというアンダードッグ」の再生として語られた。公開された「1976年」は、劇中も登場する建国二〇〇年祭で全米が沸いており、この旧首都は歴史観光都市として生まれ変わり、仮想的な全米の「中心地」として再び花開いた年だ。私的な物語が、複数の段階を経てナショナルなレベルにまで昇華された、アンダードッグ「再生」の物語だった。
 ライアン・クーグラーは、引退後のロッキーを描いた2006年の『ロッキー・ザ・ファイナル(Rocky Balbore)』で終焉していたこのシリーズを「再生」させた。2013年のデビュー作『フルートベール駅で』がサンダンス映画祭で話題になった後、クーグラーは既知ではなかったスタローンに依頼して続編の制作許可と出演交渉に成功し、クリードシリーズ第一作『クリード チャンプを継ぐもの』(2015年)を監督し大ヒットへと導いた。引退した「イタリアの種馬」ロッキーが、ライバルの黒人ボクサーアポロ・クリードの息子をボクサーとして育てる「父子の愛と継承」の物語だ。この「父子」関係に、実の血縁ではないこと、その背景に過去のシリーズで描かれた実の息子との確執、ロサンゼルス「西海岸」のアッパークラス対フィラデルフィア東海岸」のアンダークラスという階級、そして、「白人・黒人」という人種間関係を絡ませたものだ。制作された時期、全米では大きな人種主義への抗議行動「ブラック・ライブズ・マター運動」が拡大していた。『フルートベール』でクーグラーが描いた警官による黒人射殺事件は、この主題を実在の事件から直接描いたものだった。歴史に根ざした構造的な「命の格差」がBLM運動の焦点だが、「アンダードッグ」の歴史を可視化して継承する。『クリード チャンプを継ぐもの』はこうした「ロッキー的アメリカン・ドリーム」を現代的な書割りで描いている。それは、本作以降『ブラックパンサー』シリーズの製作を続けてきたクーグラーの成功譚であり、同時に、スーパーヒーローものやハリウッド超大作路線=アメリカ映画のメインストリームにおける黒人表象の「再生」物語でもある。
 

2.クーグラーからジョーダンへ

 クーグラーは第一作で監督したのち、第二作『クリード 炎の宿敵』では製作及び製作総指揮へと退き、本作『Creed III クリード 過去の逆襲』でもその体制を保ちながら、監督の方は主演のマイケル・B・ジョーダンが担うことになった。この継承はどのようなものか。
 本作にはジョーダンのパーソナルな趣味が生かされており、作品のストーリーやキャラクターに作り手の背景が投影されている。クーグラーが自身のキャリアを作品製作過程に重ねたのと同様、再び映画制作のノンフィクションとフィクションを交差させるものとなっている。
 例えばジョーダン/アドニスが一作目で発揮しまくった金持ちのボンボン性は、本作でも遺憾無く発揮される。アドニス少年の部屋では壁に貼られたガンダムや日本のアニメのポスターが一瞬大映しになるが、ジョーダンは日本アニメファンとして知られている(※)。日本マンガやアニメのnerd(ナード/オタク)の称号を嬉しそうにアピールするいい年したセレブの「男の子」とは、マイケル・B・ジョーダンそのものだ。
 しかし物語では、トラウマ、自身の辛い過去に向き合う困難、暴力性と男性性(toxic masculinity)というテーマが加えられることで、「アンダードッグ」とは異なるタイプで、観客が共感し応援するキャラクターが提示される。歴史が自身に与えた足枷と向き合えずに時を過ごしてきた。同時に、ストーリー前半で一種のヒールとして構築され、後半でジョーダンと対峙する「兄弟」のデイミアンは、デイミアンは少年期から18年もの時間を刑期として奪われていて、その時期の喪失はアスリートとしても致命的なものである。自身の境遇への怒りを「兄弟」への「怒り」へ転化させた「アンダードッグ」である。4で述べるように本作がフィラデルフィア=兄弟愛の映画ではないことは、ここに必然性を見出せる。彼もまた、アドニス同様歴史の足枷がかけられているが、両者は、試合の直前のシーンで「足枷が外れた」と言葉にし、画面上左右に分かれ袂を分つ。 
 ヒロインのビアンカテッサ・トンプソン)は難聴で聴覚を失いつつあるが、シンガーからプロデュース業へと転向し自身の境遇の足枷と向き合い、別の生き方を選んでいる。このエピソードが前半で語られる際にデイミアンが共感を示しつつヒール化していく。まず両者をつなぎ、他方ではビアンカアドニスを対立させる形で、勧善懲悪的な共感を避ける形になっている。
 さらに「黒人女性」などへのステレオタイプも一種の「足枷」として示されている。トンプソンはインタビューのなかで、感情をコントロールできずトラウマに向き合えない男性と、感情を制御し現実に向き合う女性という設定は、これ自体が(現実でもあるものの)ジェンダー役割を黒人女性・男性へ押しつけてきたもので、アドニスビアンカの諍いのシーンできちんとこの問題に触れていることについて非常に嬉しかったと述べている。
 フィラデルフィアもの、アンダードッグもの、「黒人」「男女」のステレオタイプなど「歴史」を下敷きにしつつ継承する。この方向性は、人種的融和・多様性の点で次代へと継承したクーグラーとは異なる、もうひとつ別のステージ移行のように見える。
 

3.イーストウッドからジョーダンへ? ジョーダンからケントへ?

 本作は、生まれつき聴覚を持たない娘にボクシングを受け継ぐことを象徴するシーンで幕を閉じる。続編への目配せであるが、もし実現するなら、暴力=有害なる男性性と、「女性/聴覚障害者」というマイノリティの主体性を交差させる設定が想像される。娘役を務めたのは実際に聴覚障害を持つ俳優のミラ・デイビス・ケント。本作が映画デビュー作というが、とても愛らしい魅力を放つ彼女が次回作にキャスティングされ、無邪気さの魅力によって「男性性」を覆すボクシングの物語の主人公となれば素晴らしいものになりそう。思い出されるのは、痛ましいほどに尖った女性の表象やアイルランド系のアイコンが使われたクリント・イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』。カウンターパートというか相補的な作品になると面白いなと思う。
 

4.フィラデルフィアからロサンゼルスへ

 本作はフィラデルフィア映画ではない。シーンは一度も登場しないし、何よりスタローン不在だ。ここまで潔くロッキー=フィリー映画でなくなったことは、フィラデルフィア愛郷心を持つ筆者には残念ではあった。いつ出るかいつ出るか、とどうしても期待しながら観てしまったが、最後までスタローンは登場しない(だからこそ、Based on charactors created by Sylvestar Stalloneというクレジットにグッときた)。ある種のご当地ものとしてのロサンゼルス映画として、変奏のように作られているが、『ラ・ラ・ランド』のようなパロディが通用するほどに、ロスはあまりにハリウッド映画の対象になり過ぎているのでそれほど面白い展開ではないと思った。HOLLYWOODサインの上でアドニスフィラデルフィア美術館でのロッキーのようなポーズを取ったり、アポロ=ロッキーまたはドラコ=ロッキー・トレーニングシーンへの明らかなオマージュがある(※2)。
 
 「再生と継承」という線から以上のようにまとめているうちに、次のようにも思えてきた。ひょっとするとクーグラーは、自身が監督する場合どうしてもスタローン=ロッキーという「歴史の構造」から抜け出せないことを理解していて、そのために、継承と再生の使者としてマイケル・B・ジョーダンを仕向けたのかもしれない。彼は、歴史のトラウマに向き合い「汝自身を知れ」というデルフォイの神託なのだろうか(※3)。
 
 
 
 ※1 マイケル・ジョーダンのミドルネーム「B」は、マンガ『BLEACH』に出てくる技「卍解Bankai」に由来する、とか冗談を飛ばしている。クリードはアニメ版としてスピンオフが展開される。冒頭の文字での紹介もあり、映画上映後"Creed: SHINJIDAI"という名でアニメ映画のショート版が上映された。近未来SFもので、2038年の人類火星移住後、火星を含めた六大陸で難民のボクシングマッチが外交的交流戦として開催されるようになったというストーリー。タッチは『AKIRA』や初期ガイナックスなど80年代日本アニメ風に見える(2018年に制作された『あしたのジョー』を原案にした『メガロボクス』のチームが制作したようだ)。「Shinjidai」と日本語を副題に冠しているようにアニメ=日本文化路線を強調した表象だが、他方で、サウンドが和琴でつくられていたりと、ステレオタイプ化や文化のアプロプリエーションについて不安を覚えるものでもある。
※追記20230605
 『クリード』三作目に併映されたアニメ映画『Creed: SHINJIDAI』。いったい何が起こっているのだろうかとしばらく考えながら国内の反応を見ていた。ひょっとすると、ここにはアニメという日本「文化の盗用(appropriation)」についての批判を抑える狙いがあるのかもしれない。
 こちらは結構話題になっている通り、『3』の作中では、日本アニメのアクションを積極的に引用(appropriation)している。少年時代のアドニスの部屋のポスターなどはガンダムルパン三世など日本のアニメだらけ(時代設定と現実の年代は微妙にズレている)、ボクサーショーツデザインはAKIRAインスパイア、アドニス=デイム戦の暗闇演出やクロスカウンター描写はドラゴンボールZNARUTO、はじめの一歩から、NARUTOの二本指握手のポーズも引用されている。
 クリード三作目はアメリカではシリーズ屈指の大ヒットを飛ばしているが、アメリカでは日本アニメの引用元を探す投稿がTikTokなどのSNS上を賑わせている。日本での興行成績は初週から鳴かず飛ばずのようだが、『SHINJIDAI』は日本で初お披露目となり、また今のところ日本だけで公開されている。この特別扱いは「ジョーダンの日本アニメ愛」という物語で宣伝されているが、同時に、オンラインでネタ元探しを誘発しアメリカのファンコミュニティ消費を狙いつつ、「文化の盗用」と批判され炎上することを避けるねらいがあることも十分に想像できる。日本を「もてなして」目くばせするためのムービーであり、映画でも作家性を発揮したマイケル・B・ジョーダンの趣味全開の「やりたい!」にも応える。『SHINJIDAI』も『3』同様に、ロッキーシリーズ以来のプロデューサーアーウィン・ウィンクラーによるもので、正統なスピンオフ作品の位置づけのようである。
 マイケル・B・ジョーダンとしては、有害なる男性的な「黒人男性」の主流文化とは座りの悪かろう、弱虫的な「ナード」や「otaku(=アニメやマンガなど日本のコンテンツに限ったファンを指す言葉)」文化をそこに接続しようとするねらいもあるのかもしれない。(黒人)男性として、自身の弱さに向き合い受け入れていく「クリード」シリーズを通してのアドニスの物語にもフィットする。アメリカの日本アニメファン当事者として、自分こそがそれができる存在だし、私的な物語としても実現したいと考え、今回の作家性に現れたのかもしれない。この点については、筆者もそれほど黒人コミュニティやアメリカのotakuファンコミュニティに明るいわけではないので、ちょっとハッキリは言えないが。
 一方で、当事者であるはずの日本社会ではこうした議論はほとんど聴こえてこないことにも既視感がある。これは、スカーレット・ヨハンソン主演のハリウッド版『ゴースト・イン・ザ・シェル』でアメリカでホワイトウォッシュ批判が巻き起こったとき、日本の言論が凪いでいたことが思い出される。また、アトロクで宇多丸さんが述べていたような日本の観客が『SHINIJIDAI』を観た時の困惑は、筆者も公開初日初回のIMAXで観た劇場でも軽い騒めきのごとく感じたが、Twitter上でも散見される。この困惑は、ロッキーやハリウッド映画を観る国内ファンはやはり「洋画ファン」とでも括るべき一種のサブカルチャー的消費者なのであり、彼らと、アメリカないし英語圏での「otaku」というサブカルチャーの消費者たちの間に生まれたスレ違いが生んだものだったのだろう。
 ※2 IMAXで見た。IMAXで撮影された初のボクシング映画という売り文句で、主役が監督した際によくある、自身の見せ場を作りすぎてバランスを崩すという事態を心配していたが、ギリギリ楽しめるラインではあった。とはいえボクシングシーンは物語上は不必要に長いとは思う。画面のスペクタクルや、4D上映でのスプラッシュとかのアトラクションがない場合、とくに小さなモニターなどでの鑑賞時にはより退屈なシーンと感じるだろう。 
 ※3 アポロはギリシャローマ神話の神。ゼウスの息子で、太陽、調和、光や癒し、音楽やダンスなどを象徴する。古代ギリシャで社会の権力を動かしもした神のお告げ「デルフォイの神託(Delphi/Pytho)」が告げられたのがアポロ神殿。アポロ・クリードが設立しアドニスが継承したジムの名は「デルフォイ・アカデミー」。ロッキーシリーズからして、ボクサーという神々がジムでお告げを受ける神話なのだ。(ときにお告げは神父からイタリア語でなされもしていた。)実際のアポロ神殿の入口には「汝自身を知れ γνῶθι σεαυτόν(gnōthi seauton)」という格言が掲げられていたというが、本作の「見ないふりをしてきたトラウマに向き合う」というテーマへと通じている。デルフォイの語は派生しつつ「イルカ=ドルフィン」や「子宮」などの意味の言葉にもなっていて、これまでの舞台である街の名「フィラ/デルフィア=同じ子宮から出てきた二人のための愛=兄弟愛」へと受け継がれている。初めの首都、すなわちアメリカの起源神話でもある。
 
Creed III クリード3』2023年
監督・主演 Michael B. Jordan
制作/ストーリー Ryan Coogler
脚本 Zach Baylyn