アメリカ学会の第59回年次大会に参加して以下の部会でコメンテーター(「討議者=discussant」)を務めました。
部会C「アメリカ文化研究は、今 ー アメリカ文化をどう教えるか?/文化でアメリカをどう教えるか?」討論者担当、北海道大学、2025年6月1日
以下、4名の発表の要旨に、私がコメントしたものの草稿が続きます。主題も研究それ自体ではないということもあり、学会発表が原稿などの形で残りにくいものなので参照用にここに記録しておきたいと思います。
要旨全文は以下:
https://www.jaas.gr.jp/annualmeeting/conference
【部会 C アメリカ文化研究は、今―アメリカ文化をどう教えるか?/文化でアメリカをどう教えるか?】
20 世紀は「アメリカの世紀」とも呼ばれ、ハリウッド映画産業の世界的流通に代表されるように、アメリカ文化は世界の文化交渉の中でも特権的な位置を占めてきた。現在もなお世界の中でのアメリカ文化は特別な位置にあり続けているが、若い世代におけるアメリカ文化に対する関心は下降の傾向にあり、表象文化領域の学問的制度化が進むなどアメリカ文化研究を取り巻く状況も変容している。
こうしたカルチャーのあり方、大学のカリキュラム制度の現況をも参照しつつ、それぞれの研究者が置かれているアメリカ研究の立場から、アメリカ文化は今、日本の大学カリキュラムにおいてどのように教えられているのかを様々な学問領域を横断する形で展望してみたい。また一口にアメリカといっても、広大な領土を有するアメリカの地域文化をどのように捉えることができるだろうか。広大な領土を有するアメリカを便宜的に分ける際に、東部、南部、中西部などのセクションは、共通の風土、精神性、政治的傾向などを共有する単位として、広大で多様なアメリカを理解するのに役立っている。しかし、都市化と郊外化が進展した現代では、同一州内でも住民の政治経済的傾向が異なることも指摘される。セクションに分けアメリカを分析することの利点と課題についても検討したい。
カリキュラムを含む教育実践の観点から、日本の大学におけるアメリカ研究の最新の動向を探ることを目 指す。メディア論、ジェンダー・セクシュアリティ研究、エスニシティ/多文化社会論などの分野において、文学や映画、ドラマ、音楽などのコンテンツ文化ははたして教育教材として有効であるのかという観点も主要な論点の一つとしたい。かつて文学は思想史・精神史の変遷を辿る上で有効な教育の題材であったが、現在ははたしてどのような状況であるのだろうか。複数の分野を接続・横断するインターセクショナリティの可能性、教育制度面での課題についても検討する。
司会:中垣恒太郎(専修大学)
討論者:佐々木優(専修大学)・小森真樹(武蔵大学)
報告者:
馬場聡(日本女子大学)「女子高等教育機関におけるアメリカ研究カリキュラムの変遷と展望――副専攻プログラムの可能性」
丸山雄生(東海大学)「ヴィーガン・スタディーズの教育と実践:(反)肉食から考えるアメリカ文化」
北田依利(東京大学・東京カレッジ・講 )「 日本で・日本語で、アメリカ史を教えるための目標設定とアプローチの事例報告」
地村みゆき(愛知大学)「先住民視点から紐解くアメリカの歴史と社会:一般教育科目『民族と文化』における授業実践」
馬場聡(日本女子大学) 「女子高等教育機関におけるアメリカ研究カリキュラムの変遷と展望――副専攻プログラムの可能性」
この報告では報告者が勤務する日本女子大学文学部英文学科を例に、アメリカ文学・文化分野のカリキュラムの変遷を概観したうえで、近年設置したグローバル教養型副専攻プログラムの可能性について検討する。 日本女子大学におけるアメリカ研究プログラムは、日本の女子高等教育機関に先駆けて 1962 年に、当時、学長であった上代タノ(英文学者、平和活動家)を中心に発足した。従来、英文学の枠組みのもとでアメリカ文学教育がなされていたが、このプログラムでは「学生に多方面からアメリカ合衆国の社会と文化を理解させ」、さらには「アメリカ研究者を育てること」が目的とされ、新たにアメリカ哲学、アメリカ経済、アメリカ政治、アメリカ史等の専門科目が置かれることとなった。設置にあたって、アジア財団を筆頭に、フォード財団、日米協会等の支援を受けていることからも分かるように、このプログラムは冷戦期アメリカのエリア・スタディーズの影響が色濃い。
こうした経緯で刷新されたアメリカ分野のカリキュラムは、マイナーチェンジを繰り返しながらも、その大枠は継承され続けてきた。ところが、アメリカ研究プログラムの設置から半世紀以上を経た現在、既存のカリキュラムと学生のニーズとの間に少なからぬ乖離が顕在化しはじめた。具体的には、近年、「アメリカ」という地域に対する憧れや関心から、その地域の文学や文化を学びたい、と考える学生が減少している。一方、「英語」を使って「グローバル」に活躍することを将来の目標とし、その目標を達成するための学びを期待する学生が増加している。こうした状況をふまえて、既存のアメリカ文学、および、アメリカ研究カリキュラムと並立する形で 2024 年度より新たにグローバル教養型副専攻プログラムを設置した。この副専攻プログラムと既存のアメリカ分野のカリキュラムとの相補的な関係性を軸に、アメリカを脱中心化した視点からの学びの可能性について議論したい。
丸山雄生(東海大学) 「ヴィーガン・スタディーズの教育と実践:(反)肉食から考えるアメリカ文化」
ヴィーガン・スタディーズは 2010 年代後半から本格化した新しい学問領域で、ヴィーガニズム(肉をはじめとする動物性のものを食べない思想・行動)を、単なる食の選択や好みではなく、人間と動物の関係をめぐるイデオロギーとして構築しようとする。健康、栄養、安全などに関するフードサイエンスとは異なり、食の政治性を対象としている。先行的な分野としてフェミニズム、動物の権利論、批判的動物研究(CAS)から直接の影響を受けており、近代以降、資本主義とグローバリゼーションが作ってきた食のあり方を問い直し、(人間を含む)あらゆる動物の生の搾取に対抗し、食の正義(food justice)を追求しようとする。よって、知識や理論にとどまらず変革のための実践と行動を重視する点を特徴とする。また、近年の動物をめぐる議論の発展とともに、ポストヒューマニズム、マルチスピーシーズ人類学、気候変動、批判的人種理論など隣接する諸分野と相互に参照しながら研究が進められている。
本発表では、ヴィーガン・スタディーズの成果に基づき、その思想をアメリカ文化研究に応用する可能性を検討したい。報告者はいくつかの授業でヴィーガニズムを取り上げ、食という身近なトピックに注目することで導入段階を容易にするとともに、食からアメリカの歴史や文化に接続してより深い理解を促すことを試みてきた。たとえば、肉食とジェンダーの関係について、キャロル・アダムズらによる理論的研究と、映画や視覚表象の分析を交差させることで、肉食の特権性やそれが支えてきたいびつなジェンダー規範を批判的に理解することが可能だと考える。こうした授業内容を共有するとともに、そこで得られた知見と課題についてパネルやオーディエンスと議論したい。また、ヴィーガン・スタディーズが知識の増大だけでなく、食の正義の推進を目指す研究領域であることに鑑み、教室での座学を超えて、履修者自身の経験として実践することも重要な課題として検討したい。
北田依利(東京大学・東京カレッジ・講) 「日本で・日本語で、アメリカ史を教えるための目標設定とアプローチの事例報告」
本報告「日本で・日本語で、アメリカ史を教えるための目標設定とアプローチの事例報告」では、2024 年度に東京都内の二つの四年制大学で非常勤講師として、通年でアメリカ文化・アメリカ史を教えた事例を報告する。春学期はアメリカ本土の通史(1619 年から 20 世紀後半まで、地域は東・西・南部などに最低 1 回は触れた)、秋学期はアメリカ帝国のアジア太平洋地域における覇権(19 世紀中頃から 20 世紀末まで、ハワイ・フィリピン・日本・朝鮮など +日本帝国)を教えた。週ごとにトピックをきめ、歴史的背景などを講義し、授業内に一次資料をグループでディスカッションしてもらう形式で行った。また、トピックに関連した論文か研究書の 1 章を予習のために毎週アサインし、学術的な文章を早く正確に読むかなどのスキルを身につけてもらうことにも気を配った。こうした経験をふまえて、授業目標をどのように設定し、その目標設定のためにどのように授業内容や課題を設定したか、といった経験談を紹介する。非常勤講師である報告者は、アメリカ文化やアメリカ地域への学生の関心を高めなければならないというような義務からは自由であってきた。むしろ、アメリカという事例を通して、学生たちが資料を読み解き文章を書きながら、日本にも通底する社会の諸問題を批判的に捉える力を養えるように、授業を運営してきた。同様の関心から、アメリカ地域への基礎的な知識を学生に身につけさせることを意図した、地図などを使用した小テストも一切実施していない。この事例を通して、部会のテーマである、「アメリカ文化をどう教えるか?/文化でアメリカをどう教えるか?」という問いを検証してみたい。
地村みゆき(愛知大学) 「先住民視点から紐解くアメリカの歴史と社会:一般教育科目『民族と文化』における授業実践」
生成 AI の発達が著しく、情報過多な現代社会において、入手した情報の確かさを自分で判断し、選択し、利用していく力が求められている。その中で、多種多様な学生が受講する大学の一般教育にできることは大きいと考える。
本報告では、先住民史を研究する報告者が担当する一般教育科目、「民族と文化」における教育実践例を紹介する。「民族と文化」は、アメリカ合衆国の歴史と社会をポストコロニアルな視点、主に先住民視点から紐解く授業である。履修者の中には、アメリカ合衆国で起こっていることは自分とは無関係なことと捉えている学生も多い。そのため、授業では、アメリカ合衆国の諸事象を一つの事例として扱い、日本の諸事象と比較検討している。そして、アメリカで起きていることは決して対岸の火事ではなく、身近な問題であることを示している。そこで意識しているのは、対話を通して、学生に、これまで不可視化されてきた人びとの存在や考え方に気づかせること、そして、その気づきを通して現代の日本に生きる自分たちのあり方を見つめ直す機会を与えることだ。
授業で扱うテーマは「アメリカは『新世界』だったのか」、「インディアンとはだれのことか」、「アメリカ・メキシコ国境の壁は必要か」、「なぜ『民族』・『人種』のモノマネはタブー視されるのか」、「オスカーが真っ白だと言われた理由」など多岐にわたる。報告では、好評だった、YouTube 動画や映画、CM 等の映像を利用した授業回の実践例を一部紹介する。そして、この数年間、報告者がそうした授業を行う中で得られた手ごたえと、見えてきた課題に言及したい。さらに、学生が期末レポートで扱うテーマの傾向と受講後の学生の反応に触れ、その後のパネルおよびフロアとのディスカッションのきっかけとしたい。
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小森真樹によるコメント
先生方、ご発表をどうもありがとうございました。発表構想をいただき頭に上りましたのは、学生にとってアメリカ合衆国は、”知ってるようで知らない国”であるというジレンマです。
たとえば、先の大統領選、またその結果誕生したトランプ第二次政権について、選挙中や就任式、その後の日々の大統領の動向まで日本国内でも連日の報道が活発になされています。直近のバイデン政権と比較してもその分厚さは明らかで、したがって、重要な局面で「何が起こったのか」に関しては日本社会で比較的共有されるようになっています。
しかし、他の国々と比較すればアメリカ社会や政治の情報は分厚いように思える一方で、授業での学生の反応を見ていると、その事象に対する批評的な視座や背景、歴史がむしろ共有されていないという印象を抱きます。むしろ情報があるからこそ「知ってるつもり」になっている、こうしたステレオタイプ的な理解を解除していく必要がある、そうした一種のジレンマがあるのではないかと思います。
こうした感触は、私自身教鞭を取る身として一層強く感じています。武蔵大学の所属学部は、専門性はそれほど高くない「英米文化研究」という枠組みの学科です。今回の先生方の発表からは、教育の事例や制度設計について優れた参考例をご教示いただき、また大きな刺激をいただき誠に感謝しております。
この、実は強い日米文化の結びつきを可視化することと、それらを学ぶ動機付けを行うことが重要だと感じています。先生方からお示しいただいたトピックを振り返ると、実際にはそれぞれは日本社会の問題へとつながっていることは、ここにいらっしゃる皆様には自明かと思います。地村さんがご専門とされる先住民教育は、まさにこの北海道とこの地のアイヌや、琉球などの脱植民地化の問題、また在日コリアンなども含めて人種差別の問題につながっています。丸山さんがご紹介いただいたようにヴィーガニズムは「食文化や男性性」という日本社会の主流の価値観を形づくる大きな領域です。北田さんは授業実践で「移民労働・公民権・フェミニズム」などのアメリカ研究の論点を在日コリアンや戦争花嫁などのトランスナショナルな視座につなげて示してくださいましたし、馬場先生がアメリカ研究プログラムの出自を米国の財団にあるとご紹介くださったように、一種のポストコロニアリズム的状況下における日米文化外交の影響は、現在の日本社会へと通じています。
日本社会に暮らす誰しもにかかわる「アメリカ」へのステレオタイプを解除するためには、どのような方策が有効なのでしょうか。またこうした価値観の問題を扱い際には、ときに学生からの情緒的な反発や抵抗感にも出くわしますが、これらには先生方はいかに取り組まれているのでしょうか。
こうした問題意識の上で、ここからは個別にコメントをしていきたいと思います。
いくつか先生方に質問をさせていただくことで議論の糸口にしていただき、討論者としての役割を果たしたいと思います。できる限り、各発表を横断するような質問となるように心がけます。すべてに答えていただく必要はございません。選んで答えていただいたものを今日の討議のきっかけにしつつ、残りは思考の糸口にご活用いただければ幸いです。
馬場発表(日本女子大学のアメリカ研究カリキュラム)
女性のアメリカ離れ、というご指摘もありましたが、プログラムの基盤が「女子大学」というジェンダー的に特色がある点は、実際に運用する場合にも大きい影響を与えると思われます。この点について計画時にはいかなる議論がございましたでしょうか。また、運用時になにかお気づきの点はございますか。
- グローバル・リーダーシップ・プログラム(GLP)の可能性
このプログラムが「グローバル化」だけでなく、脱植民地化やアイデンティティの多様性を重視する学びにどのように変化し得るか?たとえば、先住民や移民の視点を取り入れることで、どのような新たな教育枠組みが作れるか?(発表内でありました、「Gender Equality, and Human Rights」の授業などの取り組みや学生の反応などをご紹介いただくのもよいかもしれません)
アメリカ研究が「英語圏文化」の枠組みを超えるためには、他言語(韓国語、スペイン語、中国語、日本語など)でのアメリカ理解や受容をどのように教育に組み込むことが可能か?たとえば、学生の関心が高い韓国なら、韓国国内の文化、韓国系アメリカ文化、そして日本・韓国・アメリカの3地域の関係についてなど、トランスナショナルな枠組みをいかにプログラムに導入できますでしょうか。
北田発表(権力構造から見るアメリカ史教育)
同じく北田さんにも言語に関する質問をお聞きしてみたい。アメリカ史を日本語で教えるという営みは、単に翻訳の課題にとどまらず、アメリカという国を「単一の国家主体」ではなく、先住民・移民・言語コミュニティ・ディアスポラといった複数の語りの重なりとして再構成する契機になると思われます。トランスナショナルなフレームワークを強調された授業展開で、さらにこの複数の言語を用いるとすれば、どのような実践が可能でしょうか。言語による「多層的アメリカ」の語りについていかがお考えでしょうか?
マイノリティへの加害や彼らの権利を強調する歴史の語りに対して、いかに批判的思考を培う文脈であっても、「イデオロギー的」「なぜ主流の歴史は教えないのか」といった反発がおこる可能性があります。その場合、それに対してどのような説明や設計をされますでしょうか。とくに、「教科書的な知識」と「問い直しとしての歴史学」の違いにあまりピンとこない学生への導入・糸口はどのように設計されていますか。問い直し自体への懐疑的な姿勢、「なぜわざわざ批判的に見る必要があるのか」という反応への応答として、実際に学生が「自ら問い直したくなる」ような教材や議論設計の事例をご紹介いただけるのもよいかもしれません。
丸山発表(ヴィーガン・スタディーズ)
私の学生への観察からは、ヴィーガンに対して、「思想」や「ライフスタイル」の押しつけやエリート的実践と反発を感じる学生が一定数いると考えられます。こうした倫理的主張に対する反発にはどのように応じておられますでしょうか。また、日本では一般的なものである肉食文化的な家庭環境や、宗教や経済的事情によりヴィーガン実践が難しい学生に対しては「実践課題」をどのように設計し、包摂的な議論に導く工夫をされていまでしょうか。
本発表ではヴィーガニズムについて「反肉食ライフスタイル」としての文脈を強調しながらご紹介してくださいましたが、映画やドラマの中で描かれる肉食、動物性食品もまた同様に、ステレオタイプとしてある種の「アメリカ性」を象徴化しているように思います。ステーキやハンバーガーといった肉料理、サンクスギビングの七面鳥や団欒の食卓が「ファミリーバリュー」や、流麗な筋肉などの身体表象は、ご指摘の通り、ジェンダー、階級、人種といった問題と結びつきながら「アメリカ」を表象してきたと思います。こうした点で肉食に関する「映像表象の政治性」を学生とともに読み解く際、どのような問いかけや分析枠組みを重視されていますでしょうか。>他の先生方も映像資料を豊富に使われていると思いますが、「アメリカ表象と映像の政治性」を各領域で考えるといかがでしょうか。
これらの質問とも関連しますが、たとえば「反ヴィーガン」的なメディア表象や言論への批判的読解を含めることで、言説への批判的リテラシーを高める方法なども効果的かと感じます。「反ヴィーガン」についての教育についての可能性についてはいかがでしょうか。
地村発表(先住民視点からのアメリカ史)
先住民の経験はアメリカ国内に限らず、他の地域の植民地支配や民族抑圧の歴史と共鳴します。たとえば、アイヌや琉球などの歴史とも関連づけることで、グローバルな視点で共感を育む授業展開はこの授業を元に可能でしょうか? 具体的なアプローチがあれば教えてください。
アメリカ先住民というアイデンティティのなかにも、ラテン系であったりフランス系など、単一のアイデンティティに収まらないヘリテージーーつまり歴史的経験や文化の多様性があります。日本ではよりステレオタイプ化されやすいと思われる先住民の多様性に関して、実践例があれば教えてください。
- 「差別はダメ」だけに終わらない授業と「対話」の強調
結局「差別はダメ」の印象に終わってしまうという課題を先生もご指摘されていましたが、ここには、大量の授業数の履修を事実上強制的に課されてしまうカリキュラムの特性も背景にあり、その結果一言で説明できる印象しか授業から得られない学生が多いという、まさに構造上の課題もあると感じます。ここに、先生が取り入れておられた「対話」の観点が活用できる可能性はありますでしょうか。
また、他の先生方にもお聞きたいのですが、こうした課題にカリキュラムなどの制度設計によって対策できそうなど、お考えがあればお聞かせください。
以上のコメントと質問から、各発表が扱う「アメリカ」を単一のステレオタイプにとどまらず、多様な視点から再考するための視点を議論するきっかけになればと思います。