『クリード 過去の逆襲』評 「ロッキー=クリード」シリーズに見る四つの「再生と継承」

ネタバレ記述アリ〼

 

 「ロッキー」および「クリード」シリーズの最新作『クリード 過去の逆襲』(原題: Creed III)を観たので備忘録。「再生と継承」というキーワードから四つに分けて振り返ってみたい。

1.ロッキーからクリード

 はじめにロッキーからクリードへの継承があった。
 ライアン・クーグラーの映画監督・製作者としての成功譚は、スタローン=ロッキーのそれに擬えられる。
 シルベスター・スタローン(Stallone)は売れない俳優・映画監督時代に『ロッキー』の脚本を描いた。自身を主演キャストとすることを条件に破格の値段で脚本を販売し、映画は成功を収めた。スタローンの私生活やキャリアの背景が作中の物語に幾重にも重ねられている。「イタリアの種馬=Italian Stallion」というリングネーム主人公ロッキー・バルボアは30代を迎えた「晩年アスリート」であり、イタリア系移民というフィラデルフィアの歴史に根ざした「二級市民の白人」だ。この街は工業中心の経済がさびつきつつある、昔の首都「フィラデルフィア=兄弟愛の街」だ。ベトナム戦争公民権運動やカウンターカルチャーを経て1950年代の「アメリカン・ドリーム」の神話が翳りを見せたこの時期、ロッキーは「アメリカというアンダードッグ」の再生として語られた。公開された「1976年」は、劇中も登場する建国二〇〇年祭で全米が沸いており、この旧首都は歴史観光都市として生まれ変わり、仮想的な全米の「中心地」として再び花開いた年だ。私的な物語が、複数の段階を経てナショナルなレベルにまで昇華された、アンダードッグ「再生」の物語だった。
 ライアン・クーグラーは、引退後のロッキーを描いた2006年の『ロッキー・ザ・ファイナル(Rocky Balbore)』で終焉していたこのシリーズを「再生」させた。2013年のデビュー作『フルートベール駅で』がサンダンス映画祭で話題になった後、クーグラーは既知ではなかったスタローンに依頼して続編の制作許可と出演交渉に成功し、クリードシリーズ第一作『クリード チャンプを継ぐもの』(2015年)を監督し大ヒットへと導いた。引退した「イタリアの種馬」ロッキーが、ライバルの黒人ボクサーアポロ・クリードの息子をボクサーとして育てる「父子の愛と継承」の物語だ。この「父子」関係に、実の血縁ではないこと、その背景に過去のシリーズで描かれた実の息子との確執、ロサンゼルス「西海岸」のアッパークラス対フィラデルフィア東海岸」のアンダークラスという階級、そして、「白人・黒人」という人種間関係を絡ませたものだ。制作された時期、全米では大きな人種主義への抗議行動「ブラック・ライブズ・マター運動」が拡大していた。『フルートベール』でクーグラーが描いた警官による黒人射殺事件は、この主題を実在の事件から直接描いたものだった。歴史に根ざした構造的な「命の格差」がBLM運動の焦点だが、「アンダードッグ」の歴史を可視化して継承する。『クリード チャンプを継ぐもの』はこうした「ロッキー的アメリカン・ドリーム」を現代的な書割りで描いている。それは、本作以降『ブラックパンサー』シリーズの製作を続けてきたクーグラーの成功譚であり、同時に、スーパーヒーローものやハリウッド超大作路線=アメリカ映画のメインストリームにおける黒人表象の「再生」物語でもある。
 

2.クーグラーからジョーダンへ

 クーグラーは第一作で監督したのち、第二作『クリード 炎の宿敵』では製作及び製作総指揮へと退き、本作『Creed III クリード 過去の逆襲』でもその体制を保ちながら、監督の方は主演のマイケル・B・ジョーダンが担うことになった。この継承はどのようなものか。
 本作にはジョーダンのパーソナルな趣味が生かされており、作品のストーリーやキャラクターに作り手の背景が投影されている。クーグラーが自身のキャリアを作品製作過程に重ねたのと同様、再び映画制作のノンフィクションとフィクションを交差させるものとなっている。
 例えばジョーダン/アドニスが一作目で発揮しまくった金持ちのボンボン性は、本作でも遺憾無く発揮される。アドニス少年の部屋では壁に貼られたガンダムや日本のアニメのポスターが一瞬大映しになるが、ジョーダンは日本アニメファンとして知られている(※)。日本マンガやアニメのnerd(ナード/オタク)の称号を嬉しそうにアピールするいい年したセレブの「男の子」とは、マイケル・B・ジョーダンそのものだ。
 しかし物語では、トラウマ、自身の辛い過去に向き合う困難、暴力性と男性性(toxic masculinity)というテーマが加えられることで、「アンダードッグ」とは異なるタイプで、観客が共感し応援するキャラクターが提示される。歴史が自身に与えた足枷と向き合えずに時を過ごしてきた。同時に、ストーリー前半で一種のヒールとして構築され、後半でジョーダンと対峙する「兄弟」のデイミアンは、デイミアンは少年期から18年もの時間を刑期として奪われていて、その時期の喪失はアスリートとしても致命的なものである。自身の境遇への怒りを「兄弟」への「怒り」へ転化させた「アンダードッグ」である。4で述べるように本作がフィラデルフィア=兄弟愛の映画ではないことは、ここに必然性を見出せる。彼もまた、アドニス同様歴史の足枷がかけられているが、両者は、試合の直前のシーンで「足枷が外れた」と言葉にし、画面上左右に分かれ袂を分つ。 
 ヒロインのビアンカテッサ・トンプソン)は難聴で聴覚を失いつつあるが、シンガーからプロデュース業へと転向し自身の境遇の足枷と向き合い、別の生き方を選んでいる。このエピソードが前半で語られる際にデイミアンが共感を示しつつヒール化していく。まず両者をつなぎ、他方ではビアンカアドニスを対立させる形で、勧善懲悪的な共感を避ける形になっている。
 さらに「黒人女性」などへのステレオタイプも一種の「足枷」として示されている。トンプソンはインタビューのなかで、感情をコントロールできずトラウマに向き合えない男性と、感情を制御し現実に向き合う女性という設定は、これ自体が(現実でもあるものの)ジェンダー役割を黒人女性・男性へ押しつけてきたもので、アドニスビアンカの諍いのシーンできちんとこの問題に触れていることについて非常に嬉しかったと述べている。
 フィラデルフィアもの、アンダードッグもの、「黒人」「男女」のステレオタイプなど「歴史」を下敷きにしつつ継承する。この方向性は、人種的融和・多様性の点で次代へと継承したクーグラーとは異なる、もうひとつ別のステージ移行のように見える。
 

3.イーストウッドからジョーダンへ? ジョーダンからケントへ?

 本作は、生まれつき聴覚を持たない娘にボクシングを受け継ぐことを象徴するシーンで幕を閉じる。続編への目配せであるが、もし実現するなら、暴力=有害なる男性性と、「女性/聴覚障害者」というマイノリティの主体性を交差させる設定が想像される。娘役を務めたのは実際に聴覚障害を持つ俳優のミラ・デイビス・ケント。本作が映画デビュー作というが、とても愛らしい魅力を放つ彼女が次回作にキャスティングされ、無邪気さの魅力によって「男性性」を覆すボクシングの物語の主人公となれば素晴らしいものになりそう。思い出されるのは、痛ましいほどに尖った女性の表象やアイルランド系のアイコンが使われたクリント・イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』。カウンターパートというか相補的な作品になると面白いなと思う。
 

4.フィラデルフィアからロサンゼルスへ

 本作はフィラデルフィア映画ではない。シーンは一度も登場しないし、何よりスタローン不在だ。ここまで潔くロッキー=フィリー映画でなくなったことは、フィラデルフィア愛郷心を持つ筆者には残念ではあった。いつ出るかいつ出るか、とどうしても期待しながら観てしまったが、最後までスタローンは登場しない(だからこそ、Based on charactors created by Sylvestar Stalloneというクレジットにグッときた)。ある種のご当地ものとしてのロサンゼルス映画として、変奏のように作られているが、『ラ・ラ・ランド』のようなパロディが通用するほどに、ロスはあまりにハリウッド映画の対象になり過ぎているのでそれほど面白い展開ではないと思った。HOLLYWOODサインの上でアドニスフィラデルフィア美術館でのロッキーのようなポーズを取ったり、アポロ=ロッキーまたはドラコ=ロッキー・トレーニングシーンへの明らかなオマージュがある(※2)。
 
 「再生と継承」という線から以上のようにまとめているうちに、次のようにも思えてきた。ひょっとするとクーグラーは、自身が監督する場合どうしてもスタローン=ロッキーという「歴史の構造」から抜け出せないことを理解していて、そのために、継承と再生の使者としてマイケル・B・ジョーダンを仕向けたのかもしれない。彼は、歴史のトラウマに向き合い「汝自身を知れ」というデルフォイの神託なのだろうか(※3)。
 
 
 
 ※1 マイケル・ジョーダンのミドルネーム「B」は、マンガ『BLEACH』に出てくる技「卍解Bankai」に由来する、とか冗談を飛ばしている。クリードはアニメ版としてスピンオフが展開される。冒頭の文字での紹介もあり、映画上映後"Creed: SHINJIDAI"という名でアニメ映画のショート版が上映された。近未来SFもので、2038年の人類火星移住後、火星を含めた六大陸で難民のボクシングマッチが外交的交流戦として開催されるようになったというストーリー。タッチは『AKIRA』や初期ガイナックスなど80年代日本アニメ風に見える(2018年に制作された『あしたのジョー』を原案にした『メガロボクス』のチームが制作したようだ)。「Shinjidai」と日本語を副題に冠しているようにアニメ=日本文化路線を強調した表象だが、他方で、サウンドが和琴でつくられていたりと、ステレオタイプ化や文化のアプロプリエーションについて不安を覚えるものでもある。
※追記20230605
 『クリード』三作目に併映されたアニメ映画『Creed: SHINJIDAI』。いったい何が起こっているのだろうかとしばらく考えながら国内の反応を見ていた。ひょっとすると、ここにはアニメという日本「文化の盗用(appropriation)」についての批判を抑える狙いがあるのかもしれない。
 こちらは結構話題になっている通り、『3』の作中では、日本アニメのアクションを積極的に引用(appropriation)している。少年時代のアドニスの部屋のポスターなどはガンダムルパン三世など日本のアニメだらけ(時代設定と現実の年代は微妙にズレている)、ボクサーショーツデザインはAKIRAインスパイア、アドニス=デイム戦の暗闇演出やクロスカウンター描写はドラゴンボールZNARUTO、はじめの一歩から、NARUTOの二本指握手のポーズも引用されている。
 クリード三作目はアメリカではシリーズ屈指の大ヒットを飛ばしているが、アメリカでは日本アニメの引用元を探す投稿がTikTokなどのSNS上を賑わせている。日本での興行成績は初週から鳴かず飛ばずのようだが、『SHINJIDAI』は日本で初お披露目となり、また今のところ日本だけで公開されている。この特別扱いは「ジョーダンの日本アニメ愛」という物語で宣伝されているが、同時に、オンラインでネタ元探しを誘発しアメリカのファンコミュニティ消費を狙いつつ、「文化の盗用」と批判され炎上することを避けるねらいがあることも十分に想像できる。日本を「もてなして」目くばせするためのムービーであり、映画でも作家性を発揮したマイケル・B・ジョーダンの趣味全開の「やりたい!」にも応える。『SHINJIDAI』も『3』同様に、ロッキーシリーズ以来のプロデューサーアーウィン・ウィンクラーによるもので、正統なスピンオフ作品の位置づけのようである。
 マイケル・B・ジョーダンとしては、有害なる男性的な「黒人男性」の主流文化とは座りの悪かろう、弱虫的な「ナード」や「otaku(=アニメやマンガなど日本のコンテンツに限ったファンを指す言葉)」文化をそこに接続しようとするねらいもあるのかもしれない。(黒人)男性として、自身の弱さに向き合い受け入れていく「クリード」シリーズを通してのアドニスの物語にもフィットする。アメリカの日本アニメファン当事者として、自分こそがそれができる存在だし、私的な物語としても実現したいと考え、今回の作家性に現れたのかもしれない。この点については、筆者もそれほど黒人コミュニティやアメリカのotakuファンコミュニティに明るいわけではないので、ちょっとハッキリは言えないが。
 一方で、当事者であるはずの日本社会ではこうした議論はほとんど聴こえてこないことにも既視感がある。これは、スカーレット・ヨハンソン主演のハリウッド版『ゴースト・イン・ザ・シェル』でアメリカでホワイトウォッシュ批判が巻き起こったとき、日本の言論が凪いでいたことが思い出される。また、アトロクで宇多丸さんが述べていたような日本の観客が『SHINIJIDAI』を観た時の困惑は、筆者も公開初日初回のIMAXで観た劇場でも軽い騒めきのごとく感じたが、Twitter上でも散見される。この困惑は、ロッキーやハリウッド映画を観る国内ファンはやはり「洋画ファン」とでも括るべき一種のサブカルチャー的消費者なのであり、彼らと、アメリカないし英語圏での「otaku」というサブカルチャーの消費者たちの間に生まれたスレ違いが生んだものだったのだろう。
 ※2 IMAXで見た。IMAXで撮影された初のボクシング映画という売り文句で、主役が監督した際によくある、自身の見せ場を作りすぎてバランスを崩すという事態を心配していたが、ギリギリ楽しめるラインではあった。とはいえボクシングシーンは物語上は不必要に長いとは思う。画面のスペクタクルや、4D上映でのスプラッシュとかのアトラクションがない場合、とくに小さなモニターなどでの鑑賞時にはより退屈なシーンと感じるだろう。 
 ※3 アポロはギリシャローマ神話の神。ゼウスの息子で、太陽、調和、光や癒し、音楽やダンスなどを象徴する。古代ギリシャで社会の権力を動かしもした神のお告げ「デルフォイの神託(Delphi/Pytho)」が告げられたのがアポロ神殿。アポロ・クリードが設立しアドニスが継承したジムの名は「デルフォイ・アカデミー」。ロッキーシリーズからして、ボクサーという神々がジムでお告げを受ける神話なのだ。(ときにお告げは神父からイタリア語でなされもしていた。)実際のアポロ神殿の入口には「汝自身を知れ γνῶθι σεαυτόν(gnōthi seauton)」という格言が掲げられていたというが、本作の「見ないふりをしてきたトラウマに向き合う」というテーマへと通じている。デルフォイの語は派生しつつ「イルカ=ドルフィン」や「子宮」などの意味の言葉にもなっていて、これまでの舞台である街の名「フィラ/デルフィア=同じ子宮から出てきた二人のための愛=兄弟愛」へと受け継がれている。初めの首都、すなわちアメリカの起源神話でもある。
 
Creed III クリード3』2023年
監督・主演 Michael B. Jordan
制作/ストーリー Ryan Coogler
脚本 Zach Baylyn
 
 

『美術手帖ウェブ』にパルコ「ゲリラ・ガールズ展」のレビューを書きました。

美術手帖にパルコの「ゲリラ・ガールズ展」のレビューを書きました。

 

渋谷パルコから見えざる「日本社会の半分」を表象する

bijutsutecho.com

 

SNSでは話題になった一方、このまま評論では残されないのではという懸念もあり筆を取りました。ですが私のような男性の語りばかりでは大変良くないので、本稿が色々な語りが生まれるきっかけになればとても嬉しいです。

 

雑誌『広告』に「「共時間(コンテンポラリー)」とコモンズ ーーミュージアムの脱植民地化運動とユニバーサリズムの暴力」を寄稿しました

雑誌『広告』が発売になりました。「文化とミュージアム」というお題をいただき論考を寄せています。

「共時間(コンテンポラリー)」とコモンズ

ーーミュージアムの脱植民地化運動とユニバーサリズムの暴力

 記事は、大英博物館に収集展示されるギリシャ大理石彫刻など文化財所有権をめぐる問題、ニューヨーク自然史博物館のルーズベルト像がはらむ人種主義、収集された先住民の遺骨返還などを扱ったものです。「ミュージアム近代主義植民地主義暴力装置だ」という視座の紹介からはじめて、ミュージアム植民地主義の歴史と現在にいかに向き合っているのか、今後どうしていくべきなのかについて論じました。

 ミュージアムには、モノを保管すると同時に公開する機能があります。アーカイブスと同じく保管庫ではあるものの、それとは異なる形で「歴史を書く」ために未来に開く機能を持っている「制度/施設(=インスティチューション)」であると枠づけています。概念を投げ込みながら試論的にアイデアを言葉にしてみたという性格もある論考で、この論点は別のところでも深めてみたいと思っています。

 小野直紀さんが編集長を務めた今期『広告』は今号で一区切りのようです。今期のテーマが「いいものをつくる、とは何か?」であったように、プロダクトデザインや広告などを始めとして幅広い「ものつくり」に携わる読者をイメージして書きました。限定した意味での人文学に限らず、より広い読者に自分が届けられる議論はなんだろうかと問いながら。

 特集冒頭では、小野さんの吉見俊哉先生へのインタビューから「文化」概念の総括がなされています。植民地主義ミュージアムの関係に関する研究の先駆者たる先生とまさか同じ号に掲載されてしまうとは。。。大変光栄で嬉しくもあり、気が引き締まる思いです。(打ち合わせの時点ではそこまではわかりませんでした。)

 その他の記事も美辞ではなく文字通り本当に面白いです。とくにカルチャー誌論やカタカナ用語論あたりは自身の他の研究とも深く関わるもので、とても興奮して読みました。各記事は独立して面白く、同時にそれぞれが連想を生んでリンクするものでもあり、「雑誌」媒体に特有の「偶然の幸せな出会い」の魅力を久しぶりに感じた気がしています。号を重ねてどんどん増えていったという頁数、本号は驚愕の1100頁で44万字! 多くの人が「出会う」可能性大なつくりですね。

 この雑誌は、博報堂が業界誌として出版したものがルーツにありますが、近年は非常にユニークな位置づけの人文系雑誌として刊行されてきたものです(https://kohkoku.jp/backissues/)。「雑誌」も、そして「ミュージアム」もまた時代に沿ってその役割やあり方を変えていく。届いた書誌を手に取りながらそのように思いを巡らせています。

 特集テーマを反映してデザインされた装丁が毎号面白くて、ワクワクして届くのを待ちました。届いたものは「赤」単色で塗られた辞書のようなかたち。この意味はなんぞや、と、思っていたら、じつはグラデーションで微妙な色違い版がたくさんあって、コンセプトは「同質のなかの差異/差異のなかの同質」とのこと。「文化」を表すのにこうきたか! 連想も膨らみます。

 連動企画として、「赤から想起するもの世界100カ国調査」も実施公開中です。
https://note.kohkoku.jp/n/n571eb6b1da7e

 リニューアル号以来の装丁デザインチームは、グラフィックデザイナー上西祐理さん、加瀬透さん、牧上寿次郎さんの三名ということです。今月末にはその背景をひもとくイベントも開催されるそう。

note.kohkoku.jp


 過去の装丁はこちらから。「流通」がお気に入り:

雑誌『広告』|Vol.416 特集:虚実

雑誌『広告』|Vol.415 特集:流通

雑誌『広告』|Vol.414 特集:著作

雑誌『広告』|Vol.413 特集:価値

 中も外もとても気にいっています。何度も読み返す大切な書籍になりそうです。書店で見かけたらぜひ手に取ってみてください。1000円という破格の値段は、所収の吉見俊哉先生のインタビューで「文化と経済」の関係が語られている箇所と響き合います。この本がこの条件で手に入ること。そうした社会を育てること。カルチャーとは「耕す」ことですね。こうしたプロジェクトに参加できて光栄です。

 

【取扱店】
https://kohkoku.jp/stores/


【目次】

文化とculture 社会学吉見俊哉 × 『広告』編集長 小野直紀 文:山本 ぽてと
ドイツにおける「文化(Kultur)」概念の成立とその変質 文:小野 清美
文化と文明のあいだ 文:緒方 壽人
まじめな遊び、ふざけた遊び 文:松永 伸司
建築畑を耕す 文:大野 友資
断片化の時代の文学 構成・文:勝田 悠紀
現代における「教養」の危機と行方
哲学者 千葉雅也 × 『ファスト教養』著者 レジー 文:レジー
ポップミュージックにおける「交配と捕食のサイクル」 文:照沼 健太
カルチャー誌の過去と現在 文:ばるぼら
「文化のインフラ」としてのミニシアターが向かう先 構成・文:黒柳 勝喜
激動する社会とマンガ表現 文:嘉島 唯/編集協力:村山 佳奈女
中国コンテンツをとりまく規制と創造の現場 文:峰岸 宏行
SNS以降のサブカルチャーと政治 文:TVOD
開かれた時代の「閉じた文化の意義」
哲学者 東浩紀 インタビュー 聞き手・文:須賀原 みち
文化を育む「よい観客」とは 文:猪谷 誠一
同人女の生態と特質 漫画家 真田つづる インタビュー
聞き手・文:山本 友理
ジャニーズは、いかに大衆文化たりうるのか
社会学者 田島悠来 × 批評家 矢野利裕 構成・文:鈴木 絵美里
ディズニーの歴史から考える「ビジネス」と「クリエイティビティ」 文:西田 宗千佳
ラグジュアリーブランドの「文化戦略」のいま 文:中野 香織
成金と文化支援 日本文化を支えてきた「清貧の思想」 文:山内 宏泰
経済立国シンガポールの文化事情 文:うにうに
流行の歴史とその功罪 文:高島 知子
広告業界はなぜカタカナが好きなのか 「いいもの」未知との遭遇から生まれる 文:河尻 亨一
クリエイティブマインドを惹きつけるアップル文化の核心 文:林 信行
未知なる知を生み出す「反集中」 文:西村 勇哉
「ことば」が「文化」になるとき 言語学者 金田一秀穂 × 『広辞苑』編集者 平木靖成 聞き手・文:小笠原 健
風景から感じる色と文化 文:三木 学
「共時間(コンテンポラリー)」とコモンズ ミュージアムの脱植民地化運動とユニバーサリズムの暴力 文:小森 真樹
京都の文化的権威は、いかに創られたか 構成・文:杉本 恭子
生きた地域文化の継承とは
3つの現場から見えたもの 構成・文:甲斐 かおり
ふつうの暮らしと、確かにそこにある私の違和感 文:塩谷 舞
過渡期にあるプラスチックと生活 なぜ、紙ストローは嫌われるのか? 構成・文:神吉 弘邦
文化的な道具としての法の可能性 文:水野 祐
「日本の文化度は低いのか?」に答えるために 構成・文:清水 康介
イメージは考える 文化の自己目的性について 文:中島 智


追記:また、今号の発表後ジャニーズを扱った記事で、著者の発言の一部が博報堂広報室長の判断により削除されたという問題が起こりました。その件に対して何が起こっていたか、小野編集長が公式見解を発表しています。折しもジャニー喜多川氏による性犯罪被害者へのインタビューを中心に構成されたBBCドキュメンタリー『プレデター(Predetor)』が日本でも公開された直後でもあり、憶測に基づく粗雑なコミュニケーションが生じかねないと思われます。公式見解もぜひお読みください。この件の記録も兼ねて末尾に記しておきます。 
https://note.kohkoku.jp/n/n1c49de418dff

寄稿しました→「ブラック・アートはなぜ形容詞つきなのか? 展覧会とミュージアムの歴史からたどる」『BT美術手帖』「ブラックアート特集」2023年4月号

 本日3月7日発売の『BT美術手帖』4月号「ブラックアート特集」に以下の題で短い評を寄稿しています。
https://bijutsu.press/books/5128/

「ブラック・アートはなぜ形容詞つきなのか? 展覧会とミュージアムの歴史からたどる」

 他の方の寄稿もさまざまな角度から書かれており、単純に把握するのが困難なテーマながら非常に充実したものになっています。

 必ずしも専門とは異なるので今まで文章などにはしてこなかった主題でしたが、この機会に勉強し直し振り返り、蛇行し偏重する展示史・ミュージアム史をたどってみたいと思うきっかけをいただきました。お声がけいただいた山本浩貴さん、ありがとうございました。牧信太郎さん、編集ではお世話になりました。

 ちょうど最近、以下のように関心を共にする論考がオンラインで公開されたものも見つけたのですが、ぜひ特集と併せてお読みいただきたいものなので紹介しておきます。

 アーティストの藤井光さんによる濃厚で充実した書評は、萩原弘子さんの『展覧会の政治学と「ブラック・アート」言説 ―1980年代英国「ブラック・アート」運動の研究』を紹介しながら、作家としての藤井さんの活動や「日本」というポジショナリティの問題にも踏み込んだものです。本書は今回の記事を執筆するなかでも大変勉強させていただきました。萩原さんは特集にも寄稿されています。
https://www.art-it.asia/top/admin_ed_exrev/232972/

 ロンドン芸術大学の菊池裕子さんの記事では、直近の展覧会も取り上げつつ、上の論考同様に日本の人種マイノリティを扱う文脈にも接続して論じています。問題意識を共にしつつ、拙記事では扱えなかった多くを取り上げてくださっているこの記事もぜひお読みいただきたいです。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/black-art-01-202302

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス Everything Everywhere All At Once』の評というか備忘録

 マルチバースが脳内世界で展開し、ガジェットによってそれにアクセスできるようになる。こうした設定が持つ世界観はとてもポスト1970年代的だ。ヒッピーからニューエイジへ、コンピュータ発のプログラム思考、サイケデリックとミーイズムなどとして現れた反合理主義・相対主義志向を感じる。Netflixアニメの『ミッドナイト・ゴスペル』を思い出したりもした。
 政治的な要素はそこでは不自然とも感じるほどに抜け落ちている。「中国系/アジア系」とか「人種マイノリティと移民」などもアイデンティティの政治というよりは書き割りのように思える。ステレオタイプの使い方はむしろ危ういのではと感じるところもある。ヴィランであり主人公の娘のファッションが百花繚乱で、シノラーっぽいy2kファッションがチラホラでてくるのがとても楽しいが、「文化の盗用とか今さらでクールじゃないよな」的な社会のムードで観られた場合、こんな感じの表象がヒット作として残ることがいいことなのかどうかについては少々もやっとする。家庭でスモールビジネスを経営し、ちまちま会計に厳しいとか、夫婦間での恋愛感情を表に出さない(もしくは、そもそもない)という中国系アメリカ人へのステレオタイプは最近ならドラマ『ファン家のアメリカ開拓記』とかで描かれたお馴染みのやつだけど、まあコメディなら良しといておくかくらいの感じなのだろうか。
 途中、(マルチバースの一部として?)無機物として自然の一部になるという描写があるが、そこでは石ころが思考し対話をするというのは、「個としての主体」が強く意識されている。このあたりの描写からはポストヒューマンや人新世への目配りは感じない。それらの要素をうまく物語に入れたら格段に面白くなったようにも感じる。
 物語の着地点は、「個人」と「家族」の価値観のあいだの葛藤という、かなり標準的なハリウッド映画のそれである。「中国的」な因習的家族のなかでアメリカ人として生き、移民としての世代も複数含まれ、各世代の価値観がぶつかるが、最終的には「優しさ」による三世代での調停と幸せへと着地する。同制作会社のA24による『フェアウェル』が容易に連想させられるが、心理描写は格段にあちらの方が分厚い。こちらはそもそも、全ての存在が「分裂症」なので、ほとんど動物的な反応のようにしか心理描写ができていないこともある。
 一方で、動物が明らかにぬいぐるみになるとか、小コントが細かく編成する構成、CGIやアニメシーンへの突然の切り替え、下ネタなど低俗なギャグ(とそれを取り込める設定)など、極めて強いキッチュ感があり、CMやバラエティ番組のような「テレビ感」が強い。IMAXで観たが、画面比がスイッチされてコロコロ変わるので意識せざるを得ないスクリーンが与える印象や、やたらクロースアップのショットで切り替えが多い「映画感」とのすわりの悪さがある。監督のダニエルズはMVやCMなどの仕事も多いようだ。下ネタは過去監督作の『ディック・ロングはなぜ死んだのか?』でも使われてたし、動物のぬいぐるみやそのショットで笑いを取ろうとする感じはジョーダン・ピールの『キアヌ』そっくりだなあとか、ピールのテレビ時代のコントなんかも思い出させるところがあった。
 3/3に公開で、そういえば雛祭りって中国の祭り起源だっけなと思う機会にもなった。

立教大学史学会大会の講演(6/18)に登壇します

立教大学史学会に講演にお呼びいただきました。全体のテーマが「世界史における「学知」の政治的ダイナミズム」で、僕は以下のテーマで話をします。

 

テーマ「兵器化する科学主義 ――両論併記で「天地創造」を科学する博物館――」

アメリカの公教育では、特定宗教に関わる内容を教えるために、擬似科学の形をとることで「公共性」を主張するという社会運動の手法が見られます。ここで見られる言論の構造についてミュージアム研究の観点から考察をします。

 

2022年度 立教大学史学会大会

日時:2022 年6 月18 日(土)

会場:立教大学池袋キャンパス 10 号館X304 教室

参加登録:http://www.rikkyo.ne.jp/grp/shigakkai/index.html

 

 

2022年3月16日に見た「現在」:猪熊弦一郎現代美術館「丸亀での現在」展とコミュニケーションが堆積する〈島〉

www.mimoca.org

 

丸亀の猪熊弦一郎現代美術館の「丸亀での現在」展を訪れた。2020年開催予定だった企画が、コロナ禍により一年の延期を経て日の目を見た。そのテーマが「現在」であると同時に「変化」であることが、チラシにデザインされたタイトル案の変遷に垣間見える。参加作家は、KOSUGE1-16(以下、KOSUGE)、Nadegata Instant Party(ナデガタ)、旅するリサーチ・ラボラトリー(旅ラボ)という3組のアート・コレクティブ。同世代かつ近しいフィールドで活躍してきた人々で結成された、3つのコレクティブが選ばれている(KOSUGEは現在土谷享のソロプロジェクト)。

 

「すでに関係が深い」「グループ」が「集められた」という点で、面白いキュレーションになっていた。人が集うこと、集められること、人間が関係をつくり深めることーーこれらを「できない」と強く意識する状況の下、「集まりかた・関係のしかた」の現状とポテンシャルについて考える。そのような企画として見た。

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ナデガタによる《ホームステイホーム》は、丸亀市内で一般公募からホストを募り、各都市にいる面識のない人とグループをつくって、zoomでつないで「ステイホーム」状態の「ホームステイ」を実施するものである。そのときの記録映像(主に食事風景となっている。「食卓を共にする」のがホスト=ゲスト関係の象徴だ)や、ミュージアムで行ったイベントや、展示物として仮構された〈ホーム〉など(展示室内に設置された足場に上がり俯瞰して見ると、椅子が「HOME STAY HOME」を描いている)、それらが総じてひとつの作品である(さらに、最終日3月21日にはクロージングパーティが実施されることが発表された)。このプロジェクトは、コロナ禍に人々や都市のあいだで起こっていたコミュニケーションの縮図・映し絵である。

 

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それと同時に、2022年3月16日の「今」見ると、そこで提示されているコミュニケーションの感覚は、今のわれわれとかけ離れたものになっていると感じる点も多い——たとえば、政府が発出する「緊急事態」を人々がどのように受け止めているのか、メディアとグローバルな世論と人々の想像力がウクライナの戦場や「敵」としてのプーチンに向いている状況、この日の深夜には3.11を思わせる東北地方での大きな地震が再び起こったこと、など。目を凝らせば、「ズレ」ているのである。

 

このズレによって、作品は「変化」を感じさせるものにもなっていた。図らずも*1、目くるめく日々でたやすく揺れ動いている「現在」についても描き出すことになっていた。その「儚さとズレ」もまた、「現在」の一つの実像だと言うことはしっくりくる。

 

少なくとも、現在の僕はこうした感覚で日々を過ごしている。いましがた、読者が住んでいる地域も立場も全く考慮せず乱暴に「われわれ」と書いてしまったが、パンデミック以後のコミュニケーションにおいては、「われわれ」の定義はまた一つ複雑なものになり、一層そのことを考慮することも求められているように感じている。時間の経過は人によって異なる、それぞれに様々な「現在」が共存している、このような状況をも表す作品でもある。

 

ミュージアムという現場でつくった企画を「口実」にナデガタが生み出そうとするのは*2、一時的、断続的、部分的で「いいかげん」なつながりである。ある意味では無責任で良い部分を残している、半分くらい公的なつながり。こうしたセミパブリックなつながりのために、(あまりパブリックでもなさそうに見える日本の)美術館をひらく*3。この日本の「公」によりそった批評性にナデガタの魅力がある。人と人とのつながりかたを再考すべきコロナ禍の「現在」、改めて「美術館と公共性」という観点から本作を見直す意義は高まっていよう。

 

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KOSUGE1−16は、代表作《どんどこ!巨大紙相撲》で知られている。等身大の紙相撲という明快な企画は、全国「巡業」をし、相撲の聖地墨田区では力士をの呼出を本職がおこない、懸賞品を日本相撲協会に提供してもらったというから、現実への食い込み具合がすごい。そのサッカーゲーム版とも言える《AC-21》も各地のワークショップで人気だが(バーをぐるぐる回すサッカーボードゲームのあれである)、これまた巨大なものをみんなでワイワイやっていることで、お祭り感が出る。ここには「異化作用」があり、巨大化することはその一つの手法だ。勝どきの路面に設置されたパブリックアート《2mのペットボトル》でも、普通とは異なる大きさの物体に驚かされる。また、KOSUGEはあいちトリエンナーレでは2009年から《長者町プロジェクト》で山車を設計してきたが、そこではフェルトなどのやわらかい素材であったり、動力が自転車であったりして「異化」ーー山車「なのに」××だーーが引き起こされている。

 

今回の展示《カウンタ フォイル・リサーチーーヘッドライトに照らされたクリーチャーたちー》は、展示室の暗がりに大型絵画が吊るされていて、軽トラ型の建造物のそばに寄ると、突然ヘッドライトが点灯し、照らされた絵画に描かれた小動物に光が当てられ、動力で動物(絵画)が上下する。ギアの音もけっこう大きく驚かされる。

 

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おそらくここで問われているのは、「絵画」自体ではなく、「絵画を見る」行為である。絵画を見ることを期待する観客に向けた異化作用である。会場は画家・猪熊弦一郎の美術館であり、美術館「なのに」、美術展の壁に絵がかかっている「のに」、絵を見るのではなさそうだぞ、という異化作用である。そうそう、僕の場合は、石巻市牡鹿半島で夜車を飛ばしていたとき、暗がりから驚いて飛び出してくる鹿にぶつけそうになったことがあって、そのときのことを思い出したのだが(そちらは鹿たちが逃げていくよりも、道の真ん中で「固まる」ので怖いのだが)、丸亀の夜道で小動物に出くわすのはけっこう共感できる、よくある経験なのだろうか。

 

作家自身の言葉で、「作品を見るための方法は、鑑賞者が自ら考えなくてはならない」と述べている。本作品におけるKOSUGEのねらいは、鑑賞という方法の当たり前、ものの「見方」を変化させるという点にあるようである。

 


旅するリサーチ・ラボラトリーが今回の作品《ふたつの島》でとったアプローチは、他の2つのコレクティブについて「回顧」と「比較研究」をおこなうというものだ。

 

「回顧」というのは、具体的にいえば2組に関する資料の展示である。資料のアーカイブを展示ケースに置き、コレクティブおよび個人のタイムラインを壁面に展示する形で、各コレクティブに関する「歴史」を可視化した。この展示は、来館者がそこに置かれた情報を使うためというよりは*4、「時間の経過」を目で見て視覚的に意識させる点にあると感じた。いわゆる学術的な歴史展示(美術史等も含む)との違いもここにある。

 

コロナ以前の企画された、丸亀と韓国のふたつの島を比較するという計画がお蔵入りになったという。その経緯もあり、〈島〉を、ふたつのコレクティブに擬えているようにも見える。過去のコレクティブの展示に関連する数々の物品(デッサン、チラシ、写真、イベントパスやユニフォームTシャツ…)が解説文もなく雑然とぎゅうぎゅうに展示ケースへと押し込まれており、ふたつの「島」には2組の歴史の地層が堆積している。

 

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「比較研究」は、二つのコレクティブについての考察である。旅ラボのメンバー下道元行とmamoruが会期の数日前から4日間連続で実施した対談「映像フィールドノート」の動画が展示され、それは旅ラボのウェブサイトでも公開されている。こちらは今回の旅ラボの企画についての「回顧」のようにもなっている。

 

旅ラボが「ラボ」たる所以とも思えるのは、自分たちだけが研究の主体となるよりは、場を設定するというポジションを取る点である。たとえば、編者となり『調査報告』を作成しているが、大学紀要・学術雑誌のような装丁で編まれた『調査報告 ふたつの島 KOSUGE1-16 × Nadegata Instant Partyに関する比較論考』(第1号、2021年、旅するリサーチ・ラボラトリー刊)は、いわゆる学術論文から批評までを含む。第2号『関連年表』は、旅ラボを含む3組のメンバーが各自で近年までのプロフィールを書いたもの(文体や長短に個性が垣間見える)。第3号『映像フィールドノート・台本』は、先の動画で収録されたものの台本である(台本の制作は対談の事前か事後かはわからない)。現在までに、旅ラボのサイトでは第1号のみが公開されている。

 

 

「丸亀での現在」展全体の構成もKOSUGE→ナデガタ→旅ラボの順となっていて、2つの展示室で見てきた作品を、コレクティブの全体像に位置づけたり、旅ラボによる考察と関連づけて考えさせる動線となっている。

 

旅ラボの作品は、展示内で他の展示に言及するというメタ的なものである*5。その構造上、どうしても時間について考えさせるものとなる。

 

2組のコレクティブに近いところで観察=リサーチを続けてきた旅ラボのメンバーが作成したタイムラインと、それに下道が手書きで書き込んだ注釈を眺めていると、あるコミュニティが歴史がつむぐプロセスを目の当たりにしたようだった。無数の展覧会や共同制作を経て、アトリエや飲み屋や喫茶店で交わされた会話、メールやツイッターSkypeやZoomでのやり取りから、これまで、また、この展覧会での作品は生まれているはずである。歴史はその堆積全体である。

 

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その一方で「歴史」とは、ある時点から過去を振り返り、言葉ですくい取り書かれるものでもある。書かれる前の時間には膨大な現実が流れていた。歴史は常に「回顧」である。過去をすくい取り歴史を書く人々のあいだには「関係」があり、彼らは「集まり」「コミュニケーション」をしてきた。歴史とは、あるコミュニティのなかにいる人々によって書かれる。コミュニケーションのなかで堆積され、書かれる。「回顧」のなかには関係の地層があるーー〈島〉について思いを巡らせた。

 

すでに深い「関係」を持っている参加作家らが「集め」られーーメンバーによる有名無名多数の別コレクティブ/コラボレーションも存在するようにーー、過去の経験について歴史化していく。展覧会に結実するそのプロセスには、歴史が書かれる背景にある協働性と共同性、すなわち、一朝一夕には作れない「コミュニティ」とそれを支える「コミュニケーション」の強度を感じさせられる。展覧会は人が集まるためのメディアであり、ミュージアムはその場である。

 

人が集うことが「できない」という意識は、関係をつくることができないことと容易に結びつけられがちだけど、ナデガタがやってみせたようにそれは「やり方」次第であり、KOSUGEが示したように「見方」次第でもある。そして、旅ラボが浮かび上がらせたように、「過去」と「現在」は、培われてきた関係性に支えられてつながっているものだ。

 

旅ラボにとって、ナデガタにとって、KOSUGEにとっての「丸亀の現在」とはどのようなものだろうか。展示はほどなく会期終了を迎えるが、いま一度彼らの思う「儚さとズレ」について知りたくもなった。今後も美術館ではまた別のコミュニケーションが生まれ、また別の「現在」が書かれ/つくられていくことだろう。そのとき、このパンデミックの時間はいかなる跡を残すのだろうか。

 

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自分にとって懐かしい時期のナデガタ作品



*1:旅ラボの下道基行が展示内の対談で触れているように、強く意図されたものではないようである

*2:今回旅ラボが編んだ「報告書」掲載論文のなかで新川貴詩氏が指摘するように、その方法が生まれた背景には、現代美術の作家に展示に対する謝金を出す慣例がなかった公立美術館において、ワークショップを実施し「講師謝礼」という形で資金提供をしはじめたという事情がある。日本の公共(文化)事業や公立美術館の歴史において、アーティストと学芸員によって「ワークショップ」というメディアがハッキングされたのだ。 新川貴詩「コスゲとナデガタ、その共通点と相違点」 『ふたつの島 KOSUGE1-16 × Nadegata Instant Partyに関する比較論考』(第1号、2021年、旅するリサーチ・ラボラトリー刊)https://www.travelingresearchlaboratory.com/archive/18676/

*3:「美術館をひらく」で想起したのは、筆者も参加した2009年の練馬区美術館で行われたワークショップ「一日で野外市民劇をつくる “Closing Museum,Opening Party"」と上演された市民劇『とじて 、ひらいて、その手を上に』公演である(こちらは美術館を「とじた」のであるが)。https://tohru51.exblog.jp/13896565/ 中崎透が拠点とする水戸市にある水戸芸術館は、「公共性」という観点からミュージアムのあり方を考え実践している国内を代表するミュージアムである。2019年には、まさに「アートセンターをひらく」という主題で二期の展覧会が実施された。https://www.arttowermito.or.jp/gallery/lineup/article_5050.html

*4:実際、公刊された書籍をのぞき、チラシ等はページをめくることはできず、表紙を見るために置かれていた。展示された下道・mamoruの対談も長尺ですべてを展示室で聴くことは現実的ではない(旅ラボのウェブサイト「Archive」の箇所で視聴することができる)。展示は「見せる」ためのものである。

*5:下道・mamoruの対談では、「ふたつの島」が現在のかたちへと収斂した変遷についても触れられている。https://www.travelingresearchlaboratory.com/archive/18809/