『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス Everything Everywhere All At Once』の評というか備忘録

 マルチバースが脳内世界で展開し、ガジェットによってそれにアクセスできるようになる。こうした設定が持つ世界観はとてもポスト1970年代的だ。ヒッピーからニューエイジへ、コンピュータ発のプログラム思考、サイケデリックとミーイズムなどとして現れた反合理主義・相対主義志向を感じる。Netflixアニメの『ミッドナイト・ゴスペル』を思い出したりもした。
 政治的な要素はそこでは不自然とも感じるほどに抜け落ちている。「中国系/アジア系」とか「人種マイノリティと移民」などもアイデンティティの政治というよりは書き割りのように思える。ステレオタイプの使い方はむしろ危ういのではと感じるところもある。ヴィランであり主人公の娘のファッションが百花繚乱で、シノラーっぽいy2kファッションがチラホラでてくるのがとても楽しいが、「文化の盗用とか今さらでクールじゃないよな」的な社会のムードで観られた場合、こんな感じの表象がヒット作として残ることがいいことなのかどうかについては少々もやっとする。家庭でスモールビジネスを経営し、ちまちま会計に厳しいとか、夫婦間での恋愛感情を表に出さない(もしくは、そもそもない)という中国系アメリカ人へのステレオタイプは最近ならドラマ『ファン家のアメリカ開拓記』とかで描かれたお馴染みのやつだけど、まあコメディなら良しといておくかくらいの感じなのだろうか。
 途中、(マルチバースの一部として?)無機物として自然の一部になるという描写があるが、そこでは石ころが思考し対話をするというのは、「個としての主体」が強く意識されている。このあたりの描写からはポストヒューマンや人新世への目配りは感じない。それらの要素をうまく物語に入れたら格段に面白くなったようにも感じる。
 物語の着地点は、「個人」と「家族」の価値観のあいだの葛藤という、かなり標準的なハリウッド映画のそれである。「中国的」な因習的家族のなかでアメリカ人として生き、移民としての世代も複数含まれ、各世代の価値観がぶつかるが、最終的には「優しさ」による三世代での調停と幸せへと着地する。同制作会社のA24による『フェアウェル』が容易に連想させられるが、心理描写は格段にあちらの方が分厚い。こちらはそもそも、全ての存在が「分裂症」なので、ほとんど動物的な反応のようにしか心理描写ができていないこともある。
 一方で、動物が明らかにぬいぐるみになるとか、小コントが細かく編成する構成、CGIやアニメシーンへの突然の切り替え、下ネタなど低俗なギャグ(とそれを取り込める設定)など、極めて強いキッチュ感があり、CMやバラエティ番組のような「テレビ感」が強い。IMAXで観たが、画面比がスイッチされてコロコロ変わるので意識せざるを得ないスクリーンが与える印象や、やたらクロースアップのショットで切り替えが多い「映画感」とのすわりの悪さがある。監督のダニエルズはMVやCMなどの仕事も多いようだ。下ネタは過去監督作の『ディック・ロングはなぜ死んだのか?』でも使われてたし、動物のぬいぐるみやそのショットで笑いを取ろうとする感じはジョーダン・ピールの『キアヌ』そっくりだなあとか、ピールのテレビ時代のコントなんかも思い出させるところがあった。
 3/3に公開で、そういえば雛祭りって中国の祭り起源だっけなと思う機会にもなった。