【連載】「大島新『国葬の日』が映す、あいまいな日本の民意」を wezzyに寄稿しました(+未公開原稿)

寄稿しました。プロパガンダに陥らない選挙・政治映画の良作を連発している大島新さんの最新作です。民主主義を観察する映画。

ここで触れられなかった論点ですが、寺山修司の『日の丸』やPortB高山明の「個室都市」シリーズともつなげて考えるべき映画だと考えています。wezzyにはその部分は省いたのですが、記録のために以下に続きも公開しておきます。

 

「大島新『国葬の日』が映す、あいまいな日本の民意」

(ここからDLできます) wezzy、2023年10月17日

wezz-y.com

 

////////原稿未公開部分//////////

本作を観て、二人の劇作家の作品を思い出した。


 1967年に寺山修司はドキュメンタリー番組『日の丸』をつくった。道端で人々に突然、「日の丸の赤は何を意味していますか?」「もし戦争になったらその人と戦えますか?」などと矢継ぎ早に尋ねて人々の様子を撮影したものだ。同作は同じ2022年、奇しくもオリジナル版から数えて55年ぶりに再制作され、現在の「あいまいな日本」を記録したという点で、『国葬の日』と見事に呼応したものだ。しかし両者には決定的に異なる点がある。『日の丸』のインタビューでは人々が怒りを口にするが、『国葬の日』では自ら公の場に立つ人々をのぞいて「怒り」を露わにする人が出てこないのだ。SNSやネット上に溢れていた、罵詈雑言を交えた「怒り」はどこにいってしまったのだろうか。


 もうひとつは、高山明による「個室都市」シリーズである。ツアー型のパフォーマンス演劇で知られる高山明が主催するPORT Bの作品だ。観客は、ランダムに通行人へ実施されたインタビューのDVDを個室ビデオ店の形式で鑑賞したのち、それが撮影された街のポイントをめぐるよう指示される。初めて制作された2009年の東京ヴァージョンでは、新宿池袋西口公園に設置されたボックスから出発し、街を抜け、地下道をめぐって雑居ビルの一角の「出会いカフェ」へ誘われる。マジックミラー越しに選んだ匿名の人物と会話したあとで、先程の公園を見晴らすことで、この「演劇」は終演する。寺山をシミュレーションないし変奏したと思しき同作のインタビューでは、母語や肌の色や性的指向が異なる人々を含めながら、東京は住みやすい街か、日本は豊かな国なのか、あなたは一体誰なのですか、とたたみかけながら、日本社会で暮らす人々のアイデンティティから「あいまいで多様な日本」を描いている。ここでは、「観るもの」と「観られるもの」の断絶と非対称が強調されている。DVDという映像メディアや性風俗店という形式を借りて、人々の属性のあいだにある経済的・人種民族的・性的に非対称な構造と、それらを断絶し再強化させるメディアの構造をメタ的に内包している。


 こうした劇作家の作品を思い出すことには必然性もあるのだろう、『国葬の日』は体験型の映画である。これを観るすべての人々は、そこに映る誰かと同じように、その1日を過ごしていた。その日の意味を全く意識していなかったとて。観るものは、インタビューされた人々のさまざまな意見や態度に自身との距離感を測ってしまう。大島監督は、「完成版を観て大変困惑した。観た人と困惑を分かち合いたい」と強調する。現実のすがたと「民意」の似姿のズレについて、その「あいまいさ」について対話のフォーラムをつくろうとしているのである。


 映画という形式を採る『国葬の日』には、「個室都市・東京」のDVDのようにスクリーン越しに「見る/見られる」という非対称な暴力性が、絶対的に内在されている。本作には、国葬強行が誤ちであると「正しさ」を説く活動家や、幼少期より安倍氏に強い憧れを抱いて育ち銃殺一週間前に記念写真を撮ったことを真っ直ぐな眼差しで語る青年が登場する。だが観客は、彼らと面と向かい国葬の是非について意見を交わす必要はない。そこで起こり得る、きまずさや戸惑い、敢えて言えば、面倒臭さもまた、画面越しの鑑賞者は免除されている。