『美術手帖ウェブ』にパルコ「ゲリラ・ガールズ展」のレビューを書きました。

美術手帖にパルコの「ゲリラ・ガールズ展」のレビューを書きました。

 

渋谷パルコから見えざる「日本社会の半分」を表象する

bijutsutecho.com

 

SNSでは話題になった一方、このまま評論では残されないのではという懸念もあり筆を取りました。ですが私のような男性の語りばかりでは大変良くないので、本稿が色々な語りが生まれるきっかけになればとても嬉しいです。

 

雑誌『広告』に「「共時間(コンテンポラリー)」とコモンズ ーーミュージアムの脱植民地化運動とユニバーサリズムの暴力」を寄稿しました

雑誌『広告』が発売になりました。「文化とミュージアム」というお題をいただき論考を寄せています。

「共時間(コンテンポラリー)」とコモンズ

ーーミュージアムの脱植民地化運動とユニバーサリズムの暴力

 記事は、大英博物館に収集展示されるギリシャ大理石彫刻など文化財所有権をめぐる問題、ニューヨーク自然史博物館のルーズベルト像がはらむ人種主義、収集された先住民の遺骨返還などを扱ったものです。「ミュージアム近代主義植民地主義暴力装置だ」という視座の紹介からはじめて、ミュージアム植民地主義の歴史と現在にいかに向き合っているのか、今後どうしていくべきなのかについて論じました。

 ミュージアムには、モノを保管すると同時に公開する機能があります。アーカイブスと同じく保管庫ではあるものの、それとは異なる形で「歴史を書く」ために未来に開く機能を持っている「制度/施設(=インスティチューション)」であると枠づけています。概念を投げ込みながら試論的にアイデアを言葉にしてみたという性格もある論考で、この論点は別のところでも深めてみたいと思っています。

 小野直紀さんが編集長を務めた今期『広告』は今号で一区切りのようです。今期のテーマが「いいものをつくる、とは何か?」であったように、プロダクトデザインや広告などを始めとして幅広い「ものつくり」に携わる読者をイメージして書きました。限定した意味での人文学に限らず、より広い読者に自分が届けられる議論はなんだろうかと問いながら。

 特集冒頭では、小野さんの吉見俊哉先生へのインタビューから「文化」概念の総括がなされています。植民地主義ミュージアムの関係に関する研究の先駆者たる先生とまさか同じ号に掲載されてしまうとは。。。大変光栄で嬉しくもあり、気が引き締まる思いです。(打ち合わせの時点ではそこまではわかりませんでした。)

 その他の記事も美辞ではなく文字通り本当に面白いです。とくにカルチャー誌論やカタカナ用語論あたりは自身の他の研究とも深く関わるもので、とても興奮して読みました。各記事は独立して面白く、同時にそれぞれが連想を生んでリンクするものでもあり、「雑誌」媒体に特有の「偶然の幸せな出会い」の魅力を久しぶりに感じた気がしています。号を重ねてどんどん増えていったという頁数、本号は驚愕の1100頁で44万字! 多くの人が「出会う」可能性大なつくりですね。

 この雑誌は、博報堂が業界誌として出版したものがルーツにありますが、近年は非常にユニークな位置づけの人文系雑誌として刊行されてきたものです(https://kohkoku.jp/backissues/)。「雑誌」も、そして「ミュージアム」もまた時代に沿ってその役割やあり方を変えていく。届いた書誌を手に取りながらそのように思いを巡らせています。

 特集テーマを反映してデザインされた装丁が毎号面白くて、ワクワクして届くのを待ちました。届いたものは「赤」単色で塗られた辞書のようなかたち。この意味はなんぞや、と、思っていたら、じつはグラデーションで微妙な色違い版がたくさんあって、コンセプトは「同質のなかの差異/差異のなかの同質」とのこと。「文化」を表すのにこうきたか! 連想も膨らみます。

 連動企画として、「赤から想起するもの世界100カ国調査」も実施公開中です。
https://note.kohkoku.jp/n/n571eb6b1da7e

 リニューアル号以来の装丁デザインチームは、グラフィックデザイナー上西祐理さん、加瀬透さん、牧上寿次郎さんの三名ということです。今月末にはその背景をひもとくイベントも開催されるそう。

note.kohkoku.jp


 過去の装丁はこちらから。「流通」がお気に入り:

雑誌『広告』|Vol.416 特集:虚実

雑誌『広告』|Vol.415 特集:流通

雑誌『広告』|Vol.414 特集:著作

雑誌『広告』|Vol.413 特集:価値

 中も外もとても気にいっています。何度も読み返す大切な書籍になりそうです。書店で見かけたらぜひ手に取ってみてください。1000円という破格の値段は、所収の吉見俊哉先生のインタビューで「文化と経済」の関係が語られている箇所と響き合います。この本がこの条件で手に入ること。そうした社会を育てること。カルチャーとは「耕す」ことですね。こうしたプロジェクトに参加できて光栄です。

 

【取扱店】
https://kohkoku.jp/stores/


【目次】

文化とculture 社会学吉見俊哉 × 『広告』編集長 小野直紀 文:山本 ぽてと
ドイツにおける「文化(Kultur)」概念の成立とその変質 文:小野 清美
文化と文明のあいだ 文:緒方 壽人
まじめな遊び、ふざけた遊び 文:松永 伸司
建築畑を耕す 文:大野 友資
断片化の時代の文学 構成・文:勝田 悠紀
現代における「教養」の危機と行方
哲学者 千葉雅也 × 『ファスト教養』著者 レジー 文:レジー
ポップミュージックにおける「交配と捕食のサイクル」 文:照沼 健太
カルチャー誌の過去と現在 文:ばるぼら
「文化のインフラ」としてのミニシアターが向かう先 構成・文:黒柳 勝喜
激動する社会とマンガ表現 文:嘉島 唯/編集協力:村山 佳奈女
中国コンテンツをとりまく規制と創造の現場 文:峰岸 宏行
SNS以降のサブカルチャーと政治 文:TVOD
開かれた時代の「閉じた文化の意義」
哲学者 東浩紀 インタビュー 聞き手・文:須賀原 みち
文化を育む「よい観客」とは 文:猪谷 誠一
同人女の生態と特質 漫画家 真田つづる インタビュー
聞き手・文:山本 友理
ジャニーズは、いかに大衆文化たりうるのか
社会学者 田島悠来 × 批評家 矢野利裕 構成・文:鈴木 絵美里
ディズニーの歴史から考える「ビジネス」と「クリエイティビティ」 文:西田 宗千佳
ラグジュアリーブランドの「文化戦略」のいま 文:中野 香織
成金と文化支援 日本文化を支えてきた「清貧の思想」 文:山内 宏泰
経済立国シンガポールの文化事情 文:うにうに
流行の歴史とその功罪 文:高島 知子
広告業界はなぜカタカナが好きなのか 「いいもの」未知との遭遇から生まれる 文:河尻 亨一
クリエイティブマインドを惹きつけるアップル文化の核心 文:林 信行
未知なる知を生み出す「反集中」 文:西村 勇哉
「ことば」が「文化」になるとき 言語学者 金田一秀穂 × 『広辞苑』編集者 平木靖成 聞き手・文:小笠原 健
風景から感じる色と文化 文:三木 学
「共時間(コンテンポラリー)」とコモンズ ミュージアムの脱植民地化運動とユニバーサリズムの暴力 文:小森 真樹
京都の文化的権威は、いかに創られたか 構成・文:杉本 恭子
生きた地域文化の継承とは
3つの現場から見えたもの 構成・文:甲斐 かおり
ふつうの暮らしと、確かにそこにある私の違和感 文:塩谷 舞
過渡期にあるプラスチックと生活 なぜ、紙ストローは嫌われるのか? 構成・文:神吉 弘邦
文化的な道具としての法の可能性 文:水野 祐
「日本の文化度は低いのか?」に答えるために 構成・文:清水 康介
イメージは考える 文化の自己目的性について 文:中島 智


追記:また、今号の発表後ジャニーズを扱った記事で、著者の発言の一部が博報堂広報室長の判断により削除されたという問題が起こりました。その件に対して何が起こっていたか、小野編集長が公式見解を発表しています。折しもジャニー喜多川氏による性犯罪被害者へのインタビューを中心に構成されたBBCドキュメンタリー『プレデター(Predetor)』が日本でも公開された直後でもあり、憶測に基づく粗雑なコミュニケーションが生じかねないと思われます。公式見解もぜひお読みください。この件の記録も兼ねて末尾に記しておきます。 
https://note.kohkoku.jp/n/n1c49de418dff

寄稿しました→「ブラック・アートはなぜ形容詞つきなのか? 展覧会とミュージアムの歴史からたどる」『BT美術手帖』「ブラックアート特集」2023年4月号

 本日3月7日発売の『BT美術手帖』4月号「ブラックアート特集」に以下の題で短い評を寄稿しています。
https://bijutsu.press/books/5128/

「ブラック・アートはなぜ形容詞つきなのか? 展覧会とミュージアムの歴史からたどる」

 他の方の寄稿もさまざまな角度から書かれており、単純に把握するのが困難なテーマながら非常に充実したものになっています。

 必ずしも専門とは異なるので今まで文章などにはしてこなかった主題でしたが、この機会に勉強し直し振り返り、蛇行し偏重する展示史・ミュージアム史をたどってみたいと思うきっかけをいただきました。お声がけいただいた山本浩貴さん、ありがとうございました。牧信太郎さん、編集ではお世話になりました。

 ちょうど最近、以下のように関心を共にする論考がオンラインで公開されたものも見つけたのですが、ぜひ特集と併せてお読みいただきたいものなので紹介しておきます。

 アーティストの藤井光さんによる濃厚で充実した書評は、萩原弘子さんの『展覧会の政治学と「ブラック・アート」言説 ―1980年代英国「ブラック・アート」運動の研究』を紹介しながら、作家としての藤井さんの活動や「日本」というポジショナリティの問題にも踏み込んだものです。本書は今回の記事を執筆するなかでも大変勉強させていただきました。萩原さんは特集にも寄稿されています。
https://www.art-it.asia/top/admin_ed_exrev/232972/

 ロンドン芸術大学の菊池裕子さんの記事では、直近の展覧会も取り上げつつ、上の論考同様に日本の人種マイノリティを扱う文脈にも接続して論じています。問題意識を共にしつつ、拙記事では扱えなかった多くを取り上げてくださっているこの記事もぜひお読みいただきたいです。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/black-art-01-202302

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス Everything Everywhere All At Once』の評というか備忘録

 マルチバースが脳内世界で展開し、ガジェットによってそれにアクセスできるようになる。こうした設定が持つ世界観はとてもポスト1970年代的だ。ヒッピーからニューエイジへ、コンピュータ発のプログラム思考、サイケデリックとミーイズムなどとして現れた反合理主義・相対主義志向を感じる。Netflixアニメの『ミッドナイト・ゴスペル』を思い出したりもした。
 政治的な要素はそこでは不自然とも感じるほどに抜け落ちている。「中国系/アジア系」とか「人種マイノリティと移民」などもアイデンティティの政治というよりは書き割りのように思える。ステレオタイプの使い方はむしろ危ういのではと感じるところもある。ヴィランであり主人公の娘のファッションが百花繚乱で、シノラーっぽいy2kファッションがチラホラでてくるのがとても楽しいが、「文化の盗用とか今さらでクールじゃないよな」的な社会のムードで観られた場合、こんな感じの表象がヒット作として残ることがいいことなのかどうかについては少々もやっとする。家庭でスモールビジネスを経営し、ちまちま会計に厳しいとか、夫婦間での恋愛感情を表に出さない(もしくは、そもそもない)という中国系アメリカ人へのステレオタイプは最近ならドラマ『ファン家のアメリカ開拓記』とかで描かれたお馴染みのやつだけど、まあコメディなら良しといておくかくらいの感じなのだろうか。
 途中、(マルチバースの一部として?)無機物として自然の一部になるという描写があるが、そこでは石ころが思考し対話をするというのは、「個としての主体」が強く意識されている。このあたりの描写からはポストヒューマンや人新世への目配りは感じない。それらの要素をうまく物語に入れたら格段に面白くなったようにも感じる。
 物語の着地点は、「個人」と「家族」の価値観のあいだの葛藤という、かなり標準的なハリウッド映画のそれである。「中国的」な因習的家族のなかでアメリカ人として生き、移民としての世代も複数含まれ、各世代の価値観がぶつかるが、最終的には「優しさ」による三世代での調停と幸せへと着地する。同制作会社のA24による『フェアウェル』が容易に連想させられるが、心理描写は格段にあちらの方が分厚い。こちらはそもそも、全ての存在が「分裂症」なので、ほとんど動物的な反応のようにしか心理描写ができていないこともある。
 一方で、動物が明らかにぬいぐるみになるとか、小コントが細かく編成する構成、CGIやアニメシーンへの突然の切り替え、下ネタなど低俗なギャグ(とそれを取り込める設定)など、極めて強いキッチュ感があり、CMやバラエティ番組のような「テレビ感」が強い。IMAXで観たが、画面比がスイッチされてコロコロ変わるので意識せざるを得ないスクリーンが与える印象や、やたらクロースアップのショットで切り替えが多い「映画感」とのすわりの悪さがある。監督のダニエルズはMVやCMなどの仕事も多いようだ。下ネタは過去監督作の『ディック・ロングはなぜ死んだのか?』でも使われてたし、動物のぬいぐるみやそのショットで笑いを取ろうとする感じはジョーダン・ピールの『キアヌ』そっくりだなあとか、ピールのテレビ時代のコントなんかも思い出させるところがあった。
 3/3に公開で、そういえば雛祭りって中国の祭り起源だっけなと思う機会にもなった。

立教大学史学会大会の講演(6/18)に登壇します

立教大学史学会に講演にお呼びいただきました。全体のテーマが「世界史における「学知」の政治的ダイナミズム」で、僕は以下のテーマで話をします。

 

テーマ「兵器化する科学主義 ――両論併記で「天地創造」を科学する博物館――」

アメリカの公教育では、特定宗教に関わる内容を教えるために、擬似科学の形をとることで「公共性」を主張するという社会運動の手法が見られます。ここで見られる言論の構造についてミュージアム研究の観点から考察をします。

 

2022年度 立教大学史学会大会

日時:2022 年6 月18 日(土)

会場:立教大学池袋キャンパス 10 号館X304 教室

参加登録:http://www.rikkyo.ne.jp/grp/shigakkai/index.html

 

 

2022年3月16日に見た「現在」:猪熊弦一郎現代美術館「丸亀での現在」展とコミュニケーションが堆積する〈島〉

www.mimoca.org

 

丸亀の猪熊弦一郎現代美術館の「丸亀での現在」展を訪れた。2020年開催予定だった企画が、コロナ禍により一年の延期を経て日の目を見た。そのテーマが「現在」であると同時に「変化」であることが、チラシにデザインされたタイトル案の変遷に垣間見える。参加作家は、KOSUGE1-16(以下、KOSUGE)、Nadegata Instant Party(ナデガタ)、旅するリサーチ・ラボラトリー(旅ラボ)という3組のアート・コレクティブ。同世代かつ近しいフィールドで活躍してきた人々で結成された、3つのコレクティブが選ばれている(KOSUGEは現在土谷享のソロプロジェクト)。

 

「すでに関係が深い」「グループ」が「集められた」という点で、面白いキュレーションになっていた。人が集うこと、集められること、人間が関係をつくり深めることーーこれらを「できない」と強く意識する状況の下、「集まりかた・関係のしかた」の現状とポテンシャルについて考える。そのような企画として見た。

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ナデガタによる《ホームステイホーム》は、丸亀市内で一般公募からホストを募り、各都市にいる面識のない人とグループをつくって、zoomでつないで「ステイホーム」状態の「ホームステイ」を実施するものである。そのときの記録映像(主に食事風景となっている。「食卓を共にする」のがホスト=ゲスト関係の象徴だ)や、ミュージアムで行ったイベントや、展示物として仮構された〈ホーム〉など(展示室内に設置された足場に上がり俯瞰して見ると、椅子が「HOME STAY HOME」を描いている)、それらが総じてひとつの作品である(さらに、最終日3月21日にはクロージングパーティが実施されることが発表された)。このプロジェクトは、コロナ禍に人々や都市のあいだで起こっていたコミュニケーションの縮図・映し絵である。

 

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それと同時に、2022年3月16日の「今」見ると、そこで提示されているコミュニケーションの感覚は、今のわれわれとかけ離れたものになっていると感じる点も多い——たとえば、政府が発出する「緊急事態」を人々がどのように受け止めているのか、メディアとグローバルな世論と人々の想像力がウクライナの戦場や「敵」としてのプーチンに向いている状況、この日の深夜には3.11を思わせる東北地方での大きな地震が再び起こったこと、など。目を凝らせば、「ズレ」ているのである。

 

このズレによって、作品は「変化」を感じさせるものにもなっていた。図らずも*1、目くるめく日々でたやすく揺れ動いている「現在」についても描き出すことになっていた。その「儚さとズレ」もまた、「現在」の一つの実像だと言うことはしっくりくる。

 

少なくとも、現在の僕はこうした感覚で日々を過ごしている。いましがた、読者が住んでいる地域も立場も全く考慮せず乱暴に「われわれ」と書いてしまったが、パンデミック以後のコミュニケーションにおいては、「われわれ」の定義はまた一つ複雑なものになり、一層そのことを考慮することも求められているように感じている。時間の経過は人によって異なる、それぞれに様々な「現在」が共存している、このような状況をも表す作品でもある。

 

ミュージアムという現場でつくった企画を「口実」にナデガタが生み出そうとするのは*2、一時的、断続的、部分的で「いいかげん」なつながりである。ある意味では無責任で良い部分を残している、半分くらい公的なつながり。こうしたセミパブリックなつながりのために、(あまりパブリックでもなさそうに見える日本の)美術館をひらく*3。この日本の「公」によりそった批評性にナデガタの魅力がある。人と人とのつながりかたを再考すべきコロナ禍の「現在」、改めて「美術館と公共性」という観点から本作を見直す意義は高まっていよう。

 

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KOSUGE1−16は、代表作《どんどこ!巨大紙相撲》で知られている。等身大の紙相撲という明快な企画は、全国「巡業」をし、相撲の聖地墨田区では力士をの呼出を本職がおこない、懸賞品を日本相撲協会に提供してもらったというから、現実への食い込み具合がすごい。そのサッカーゲーム版とも言える《AC-21》も各地のワークショップで人気だが(バーをぐるぐる回すサッカーボードゲームのあれである)、これまた巨大なものをみんなでワイワイやっていることで、お祭り感が出る。ここには「異化作用」があり、巨大化することはその一つの手法だ。勝どきの路面に設置されたパブリックアート《2mのペットボトル》でも、普通とは異なる大きさの物体に驚かされる。また、KOSUGEはあいちトリエンナーレでは2009年から《長者町プロジェクト》で山車を設計してきたが、そこではフェルトなどのやわらかい素材であったり、動力が自転車であったりして「異化」ーー山車「なのに」××だーーが引き起こされている。

 

今回の展示《カウンタ フォイル・リサーチーーヘッドライトに照らされたクリーチャーたちー》は、展示室の暗がりに大型絵画が吊るされていて、軽トラ型の建造物のそばに寄ると、突然ヘッドライトが点灯し、照らされた絵画に描かれた小動物に光が当てられ、動力で動物(絵画)が上下する。ギアの音もけっこう大きく驚かされる。

 

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おそらくここで問われているのは、「絵画」自体ではなく、「絵画を見る」行為である。絵画を見ることを期待する観客に向けた異化作用である。会場は画家・猪熊弦一郎の美術館であり、美術館「なのに」、美術展の壁に絵がかかっている「のに」、絵を見るのではなさそうだぞ、という異化作用である。そうそう、僕の場合は、石巻市牡鹿半島で夜車を飛ばしていたとき、暗がりから驚いて飛び出してくる鹿にぶつけそうになったことがあって、そのときのことを思い出したのだが(そちらは鹿たちが逃げていくよりも、道の真ん中で「固まる」ので怖いのだが)、丸亀の夜道で小動物に出くわすのはけっこう共感できる、よくある経験なのだろうか。

 

作家自身の言葉で、「作品を見るための方法は、鑑賞者が自ら考えなくてはならない」と述べている。本作品におけるKOSUGEのねらいは、鑑賞という方法の当たり前、ものの「見方」を変化させるという点にあるようである。

 


旅するリサーチ・ラボラトリーが今回の作品《ふたつの島》でとったアプローチは、他の2つのコレクティブについて「回顧」と「比較研究」をおこなうというものだ。

 

「回顧」というのは、具体的にいえば2組に関する資料の展示である。資料のアーカイブを展示ケースに置き、コレクティブおよび個人のタイムラインを壁面に展示する形で、各コレクティブに関する「歴史」を可視化した。この展示は、来館者がそこに置かれた情報を使うためというよりは*4、「時間の経過」を目で見て視覚的に意識させる点にあると感じた。いわゆる学術的な歴史展示(美術史等も含む)との違いもここにある。

 

コロナ以前の企画された、丸亀と韓国のふたつの島を比較するという計画がお蔵入りになったという。その経緯もあり、〈島〉を、ふたつのコレクティブに擬えているようにも見える。過去のコレクティブの展示に関連する数々の物品(デッサン、チラシ、写真、イベントパスやユニフォームTシャツ…)が解説文もなく雑然とぎゅうぎゅうに展示ケースへと押し込まれており、ふたつの「島」には2組の歴史の地層が堆積している。

 

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「比較研究」は、二つのコレクティブについての考察である。旅ラボのメンバー下道元行とmamoruが会期の数日前から4日間連続で実施した対談「映像フィールドノート」の動画が展示され、それは旅ラボのウェブサイトでも公開されている。こちらは今回の旅ラボの企画についての「回顧」のようにもなっている。

 

旅ラボが「ラボ」たる所以とも思えるのは、自分たちだけが研究の主体となるよりは、場を設定するというポジションを取る点である。たとえば、編者となり『調査報告』を作成しているが、大学紀要・学術雑誌のような装丁で編まれた『調査報告 ふたつの島 KOSUGE1-16 × Nadegata Instant Partyに関する比較論考』(第1号、2021年、旅するリサーチ・ラボラトリー刊)は、いわゆる学術論文から批評までを含む。第2号『関連年表』は、旅ラボを含む3組のメンバーが各自で近年までのプロフィールを書いたもの(文体や長短に個性が垣間見える)。第3号『映像フィールドノート・台本』は、先の動画で収録されたものの台本である(台本の制作は対談の事前か事後かはわからない)。現在までに、旅ラボのサイトでは第1号のみが公開されている。

 

 

「丸亀での現在」展全体の構成もKOSUGE→ナデガタ→旅ラボの順となっていて、2つの展示室で見てきた作品を、コレクティブの全体像に位置づけたり、旅ラボによる考察と関連づけて考えさせる動線となっている。

 

旅ラボの作品は、展示内で他の展示に言及するというメタ的なものである*5。その構造上、どうしても時間について考えさせるものとなる。

 

2組のコレクティブに近いところで観察=リサーチを続けてきた旅ラボのメンバーが作成したタイムラインと、それに下道が手書きで書き込んだ注釈を眺めていると、あるコミュニティが歴史がつむぐプロセスを目の当たりにしたようだった。無数の展覧会や共同制作を経て、アトリエや飲み屋や喫茶店で交わされた会話、メールやツイッターSkypeやZoomでのやり取りから、これまで、また、この展覧会での作品は生まれているはずである。歴史はその堆積全体である。

 

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その一方で「歴史」とは、ある時点から過去を振り返り、言葉ですくい取り書かれるものでもある。書かれる前の時間には膨大な現実が流れていた。歴史は常に「回顧」である。過去をすくい取り歴史を書く人々のあいだには「関係」があり、彼らは「集まり」「コミュニケーション」をしてきた。歴史とは、あるコミュニティのなかにいる人々によって書かれる。コミュニケーションのなかで堆積され、書かれる。「回顧」のなかには関係の地層があるーー〈島〉について思いを巡らせた。

 

すでに深い「関係」を持っている参加作家らが「集め」られーーメンバーによる有名無名多数の別コレクティブ/コラボレーションも存在するようにーー、過去の経験について歴史化していく。展覧会に結実するそのプロセスには、歴史が書かれる背景にある協働性と共同性、すなわち、一朝一夕には作れない「コミュニティ」とそれを支える「コミュニケーション」の強度を感じさせられる。展覧会は人が集まるためのメディアであり、ミュージアムはその場である。

 

人が集うことが「できない」という意識は、関係をつくることができないことと容易に結びつけられがちだけど、ナデガタがやってみせたようにそれは「やり方」次第であり、KOSUGEが示したように「見方」次第でもある。そして、旅ラボが浮かび上がらせたように、「過去」と「現在」は、培われてきた関係性に支えられてつながっているものだ。

 

旅ラボにとって、ナデガタにとって、KOSUGEにとっての「丸亀の現在」とはどのようなものだろうか。展示はほどなく会期終了を迎えるが、いま一度彼らの思う「儚さとズレ」について知りたくもなった。今後も美術館ではまた別のコミュニケーションが生まれ、また別の「現在」が書かれ/つくられていくことだろう。そのとき、このパンデミックの時間はいかなる跡を残すのだろうか。

 

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自分にとって懐かしい時期のナデガタ作品



*1:旅ラボの下道基行が展示内の対談で触れているように、強く意図されたものではないようである

*2:今回旅ラボが編んだ「報告書」掲載論文のなかで新川貴詩氏が指摘するように、その方法が生まれた背景には、現代美術の作家に展示に対する謝金を出す慣例がなかった公立美術館において、ワークショップを実施し「講師謝礼」という形で資金提供をしはじめたという事情がある。日本の公共(文化)事業や公立美術館の歴史において、アーティストと学芸員によって「ワークショップ」というメディアがハッキングされたのだ。 新川貴詩「コスゲとナデガタ、その共通点と相違点」 『ふたつの島 KOSUGE1-16 × Nadegata Instant Partyに関する比較論考』(第1号、2021年、旅するリサーチ・ラボラトリー刊)https://www.travelingresearchlaboratory.com/archive/18676/

*3:「美術館をひらく」で想起したのは、筆者も参加した2009年の練馬区美術館で行われたワークショップ「一日で野外市民劇をつくる “Closing Museum,Opening Party"」と上演された市民劇『とじて 、ひらいて、その手を上に』公演である(こちらは美術館を「とじた」のであるが)。https://tohru51.exblog.jp/13896565/ 中崎透が拠点とする水戸市にある水戸芸術館は、「公共性」という観点からミュージアムのあり方を考え実践している国内を代表するミュージアムである。2019年には、まさに「アートセンターをひらく」という主題で二期の展覧会が実施された。https://www.arttowermito.or.jp/gallery/lineup/article_5050.html

*4:実際、公刊された書籍をのぞき、チラシ等はページをめくることはできず、表紙を見るために置かれていた。展示された下道・mamoruの対談も長尺ですべてを展示室で聴くことは現実的ではない(旅ラボのウェブサイト「Archive」の箇所で視聴することができる)。展示は「見せる」ためのものである。

*5:下道・mamoruの対談では、「ふたつの島」が現在のかたちへと収斂した変遷についても触れられている。https://www.travelingresearchlaboratory.com/archive/18809/

コロナ禍ここまでの活動を振り返る:(ほぼ)2020-2021年度

日本国内の「コロナ禍」がはじまってだいたい2年くらいだ。パンデミックの強い影響下で社会を生きはじめてからそれくらい。ほぼ、2020年度から2021年度にあたる。ちょっと振り返ってみたい。

 

 

環境と意識の持ちようの変化

自身の研究活動は直接間接にアメリカでのフィールドワークが占める割合が高いので、コロナ禍ではまず「現地に行けない」という点が影を落とした。とくに、「いつ行けるかわからない」というのがとてもやりにくいのだ。例えば、むこう三年間だけ渡航が一切ができません、と言われれば比較的長期間でも計画の見通しが立つ。しかし、どこまで待てばいいかわからない。これはやりにくい。「待ち」の状態になっているのでこのままでは良くないと感じたのが2020年の春か初夏あたりだったか。調査や刺激の受け取り方を意識して変えないとと思った。これはインプットの方。

 

その一方、コロナ禍に自分はどのような貢献ができるのかということも考えた。とくに〈コロナ禍〉を記録しなくては、という意識が強く働いた。開いた状態において、なるべくコミュニケーションが生まれるようにしたいとも思った。こちらはアウトプット。

これは2011年の東日本大震災直後のことを思い出した。当時はまだ大学院生で、何かやれる能力や条件にも限りがあり、そのこと自体を意識しすぎて、”くびき”のようにそれを自分にかけてしまい、何か行動したり形にすることがうまくできなかったなと、どこか後悔のような感覚が残っている。実際には色々やってはきたのだけれど、もう少し、何事も〈かたち〉にするクセをつけたいと思ってきた。

かたちはコミュニケーションを生む。考えを内側に抱きかかえていると留まったままだ。公の状態にして社会に置く作業を繰り返さない限り、人々との交流は生まれない。流れが滞る。考えも泡のように流れていってしまう。2017年初頭にアメリカから帰国したとき、必要に迫られて色々なところに出ていくことになった。この時、そのことを実感してもいた。

目まぐるしく動く事象を記録して反応も得られるようにしたい。狭い意味での学術研究だけでなく別のチャンネルが必要だと思った。もう少し早いスパンだったり、制約が緩かったり、異なるオーディエンスに届く方法。結果的には、自分にとって新しい領域で色々と試すことにもなった。列挙してみると:

 

・学術論文ではない媒体。ウェブで読めるもの。

・硬質な論文調でなく批評的な文体。あるいは「オモシロ」的な文体。

・これまで中心にしてきた、展示やミュージアム、あるいは社会論ではなく、作品論よりのもの。

・展覧会の制作。

・編集。雑誌・マガジン的な分野をかき混ぜたもの。

・デジタルについての研究、デジタルでの制作 

・「喋り」を意識すること

 

コロナ禍の「目の前」に気持ちも身体も引っ張られ、コロナ禍突入直前から進んでいた学術書の企画は、どうしても遅れがちになってしまっている(すみません)。こちらにもやはり、「コロナ後に読まれること」を意識したものにしたいと考えている。

 

進めたプロジェクト

2020年3月。お世話になっていたフィールドワーカーのウェブマガジンFENICSからちょうど短い記事依頼をいただいた。コロナ禍の記録をしたい、記録しなくてはいけないと思う素材がありすぎるという旨を伝えたところ、連載としてはじめてもいいと言っていただいた。メルマガ形式にそぐわぬ長文の寄稿もなんども許していただき大変に感謝している。この「コロナ禍のフィールドワーク」というテーマでの6回分の連載の経験から、時事的な社会課題の題材を軽妙な語り口で伝えることは、今でこそやる意義があるのではないかと思うようになった。届くべき読者を考える機会にも。ありがとうございました。

コロナ禍のフィールドワークとアメリカのカーデモ(前) - コロナ禍のフィールドワーク(連載)」『FENICS』 2020/04/25 

コロナ禍のフィールドワークとアメリカのカーデモ(後) - コロナ禍のフィールドワーク(連載)」『FENICS』 2020/05/25 

東京・代々木「ブラック・ライブズ・マター・トーキョー」デモのエスノグラフィー:ネットで軽やかにフィールドをつなぐこと、「見えない」ものに目を凝らすこと - コロナ禍のフィールドワーク(連載)」『FENICS』 2020/06/25 

ハッシュタグをハックする:K-POPファンのブラック・ライブズ・マター運動 - コロナ禍のフィールドワーク(連載)」『FENICS』 2020/07/25

正義の荒らし?――警察アプリとTikTokをめぐるK-POPファンの平和攻撃 - コロナ禍のフィールドワーク(連載)」『FENICS』 2020/08/25 

パブリックヒストリーが開く虐殺の歴史――オクラホマ州タルサをトランプ集会とHBOドラマ「ウォッチメン」で見る」『FENICS』 2020/09/25 

 

まともに追悼文を書いたことはなかったし、自分がそうするとも思っていなかったけど、思わず書いた文章。コロナ禍の記録を意識し、また、日本語で情報があまり残らず”忘れ去られる”歴史になるという想像がついたので、なんとか公共的な場所で公開しておきたいと思って尽力した。社会論から離れて、作品の評価が浮き出てくるような記述を心がけた。多分社会論としても展開したら面白い。主題が立ってきたらどこかでそれも。

追悼アダム・シュレンシンジャー:「アメリカ郊外」を笑いに変えるインディーポップマエストロ(前編)」『新型コロナウイルスと音楽産業JASPM緊急調査プロジェクト2020』日本ポピュラー音楽学会、2021年1月12日。

「追悼アダム・シュレンシンジャー:「アメリカ郊外」を笑いに変えるインディーポップマエストロ(後編)」『新型コロナウイルスと音楽産業JASPM緊急調査プロジェクト2020』日本ポピュラー音楽学会(近刊)

「笑い、郊外、インディーポップーーアダム・シュレンシンジャーがコロナ禍に遺したプロデュースの魔法」『新型コロナウイルスと音楽産業JASPM緊急調査プロジェクト2020(仮題)』日本ポピュラー音楽学会(近刊)

以下のエントリーが元になった。

 

トランプ政権発足の前後から調査してきたネットミームの言論兵器化について、非常に面白く切り込んだドキュメンタリー映画が公開されたので、その機会に風呂敷を広げるような論考にまとめた。スッキリ爽快感のある解説にはしなかったが、その方がよかったかなと今では思っている。公刊すべきと感じたら、編集部に依頼してみるというのも新しい経験だった。

なぜオルタナ右翼はマンガのカエルを「神」として担ぎ上げたのか?:「カエルのぺぺ右翼化事件」を考える講談社現代ビジネス、2021年4月22日

 

FENICSの連載を終えて数ヶ月ほどした頃、ウェブマガジンのWezzyで再び連載の機会をいただいた。大変ありがたい。社会問題を柔らかく伝えていきたいという主旨で書き手を探されているとのことで、ここいらの自分が考えていたことと合致して驚いた。自分が書籍用に温めて座礁気味だったテーマについて相談したところ、編集の方と意気投合して実現。素材は時事的に探りつつ執筆した。社会課題を考える「入り口」としてエンターテイメントを位置づけられないかと考えて、作品論と社会論の間をいくようなものを目指した。ひとまず第一期を終えて休載中。このあたりまでの一連の評論を書籍にまとめる予定だ。

「アウトサイド」からアメリカを映す――『ノマドランド』のイエ・シゴト・タビ」wezzy 2021年6月5日

コンクリートジャングルのカウボーイとカウガール 白く塗られた黒人馬乗りの歴史を「修正」する」wezzy 2021年7月3日

お化けと差別に背筋が凍る ドラマ『ゼム』が描く住まい・契約・トラウマの人種主義」wezzy、2021年8月6日

『ユダ&ブラック・メシア』とH.E.R.〈Fight For You〉――映画を深める二つのミュージックビデオを読む」wezzy、2021年9月18日

投票の前には「まだ見ぬアメリカの夢」を観る――選挙と〈アメリカン・ユートピア〉」wezzy、2021年10月29日

 

学術研究の仕事についてはこれまでどうにも方向性が定まってこなかったが、進めたい主題も、とにかく数をこなしながら収斂しそうな予感もある。研究だと、長期間こだわって深く調査すべき対象や主題を選ぶべきで、このあたりの具体的なイメージが少しだけ見え始めてきた。「本」のイメージ。海外での調査自体はほとんどできなかったので、渡航できるようになる前に、このあたりで定めておきたいところ。

 

・論争の不/健全性、メディアと場の果たす機能について。

・歴史の語りにおけるバイアスと書き直し(修正・更新)、その手段について。

イデオロギーと文化の関係について、「文化戦争」にかわるモデル

・言論と公共性を整える/壊すツールとしての博物館。

ヒエラルキーと博物館:芸術と娯楽

 

デジタル・ミュージアム・研究――デジタル時代のミュージアムとモノと場所 」『立教アメリカン・スタディーズ』立教大学アメリカ研究所、40号、2018年3月、57-89。

遺体が芸術になるとき――医学博物館が拡張する「芸術」と医学教育の倫理」『民族藝術学会誌 Arts/』民族藝術学会、vol.37、2021年3月31日、126−139。

コロナ禍で変容する「展示の現場」ーー第四のミュージアムのデジタル化」『博物館研究』vol.56 no.9 (no.640)、2021年9月、19-23。

「女性史美術館へようこそーー展示という語りと語りなおし」『人文学のレッスン』小森謙一郎、戸塚学、北村紗衣共編著、水声社、2022年。以下でサンプルを配布しています↓

phoiming.hatenadiary.org

 

自分にとってタイムリーに立ち上がっていたパブリックヒストリー研究会にも、少しずつ参加させてもらっている。一度発表する機会もいただいた。参加される先生方の多くとは異なりいわゆるプロパーな「ヒストリアン」でないので大丈夫かなと思いながら参加しているが、様々なアプローチから言葉を交わしている場面には刺激をもらっている。東日本大震災の展示やアートについて最近調査を始めたが、同じようなテーマを本格的に研究されてきた方も多く、直接間接にアイデアをいただいている。

「災害の記憶――美術館・博物館・モニュメント」「パブリックヒストリーの現在と未来 第一部 拓かれる様々な可能性」パブリックヒストリー研究会二周年記念研究大会、2021年3月29日

 

同会も含めて、知り合いづてではない形でご依頼をいただけることがちょこちょこ増えたのは、とても嬉しい。純粋に発表した文章や活動だけで興味をもっていただけるというのは、とても励みになる。担当編集者の方から言われた、個人ブログなど相当ニッチなところでも見てる人は見てますよという言葉を、時折思い出すようにしてる。自分向けのメモや文章で満足してしまうタイプだが、勇気をもって発表するというのは大切だ。書評依頼をいただき中村寛さんと松尾眞さんの人類学者・写真家旅コラボ本のことを知ったが、あまりに自分の関心と重なっていて驚いた。編集者の方にどうやって評者として選んで下さったのか問い合わせてしまったほど。盛り込む内容、本の内容・その背景・評者の解釈、学術と創作物、などなど文章のバランスとしてもうまく書けた。

「コロナ禍で変容する「展示の現場」ーー第四のミュージアムのデジタル化」『博物館研究』vol.56 no.9 (no.640)、2021年9月、19-23。

「ふたりでアメリカを〈何でも見てやろう〉ーー「書かない」人類学的実践の現在地 中村寛・松尾眞『アメリカの〈周縁〉をあるく』」『図書新聞』3531号、2022年2月19日。

phoiming.hatenadiary.org

今年6月にも、立教大学史学会2022シンポジウム「世界史における「学知」の政治的ダイナミズム」に読んでいただいた。

 

関心はあってもこれまで全然関係してこなかった研究分野での仕事もいくつかあって、異なる分野の人たちの感覚を知ることができたり、勉強してこなかった分野の古典なんかを一気に勉強する機会にもなって、とても刺激になっている。マンガ研究、ポピュラー音楽研究など。コンテンツとして好きな対象に関する卓越した知見を知ることは素直に楽しい。その分野の「常識」もなく”寄せてもらって”コラボレーションするのは、割と厚顔だよなあとは思うのだけど。

「マンガは熱くないうちに蒐めろ――ミュージアムにおけるマンガ研究」『京都精華大学紀要』第54号、京都精華大学(近刊)

追悼アダム・シュレンシンジャー:「アメリカ郊外」を笑いに変えるインディーポップマエストロ(前編)」『新型コロナウイルスと音楽産業JASPM緊急調査プロジェクト2020』日本ポピュラー音楽学会、2021年1月12日。

「追悼アダム・シュレンシンジャー:「アメリカ郊外」を笑いに変えるインディーポップマエストロ(後編)」『新型コロナウイルスと音楽産業JASPM緊急調査プロジェクト2020』日本ポピュラー音楽学会(近刊)

「笑い、郊外、インディーポップーーアダム・シュレンシンジャーがコロナ禍に遺したプロデュースの魔法」『新型コロナウイルスと音楽産業JASPM緊急調査プロジェクト2020(仮題)』日本ポピュラー音楽学会(近刊)

 

高校生や一般向けの公開授業の機会も結構増えた。オーディエンスの性格を踏まえて、内容や伝え方・喋り方をどう変えていくと効果的なのか色々と考える機会になった。話す「目的」を考える機会にも。

「語りの空間、ミュージアム アメリカ合衆国を「ミュージアム研究」で見る」夢ナビ講義

「美術史に「女性」をとりもどす アートと美術館のアクションから学ぶジェンダーと歴史」NPO法人The F-Word 2021年6月21日

「コロナ禍におこる社会運動の〈かたち〉」武蔵大学公開講座、2021年10月30日 

 

コロナ禍でのYouTubeでのトーク番組やPodcastの充実振り、アカデミックなウェビナーの増加と長距離参加の容易さから、今まで以上に音声メディアで情報を得るようになった。同時期にオンライン授業も始まり、オンデマンドや配信などの方法を、いろいろと試すことにもなった。話し手の振る舞いによって情報の伝わり方が違うのだということを、今まで以上に実感するようになった。そのことで、多方面に「喋り」を意識する活動を試している感覚がある。

授業では、ラジオメディアを模して展開する授業形式を試しているところ。その一つが、「書く」行為を批判的に考える人類学「書かない人類学」の授業で、内容とも重なって受講生には好評だった。

トーク番組やラジオ番組では、きっちり尺が決まり、過不足なく内容を抑えながら喋るというのはかなり大変なのだと実感。打ち合わせ=台本の良し悪し。

「移動中の語り」をテーマにしたリサーチプロジェクトDialogue/Research/Tripを始めたのも、この辺の関心に基づいたもの。中村・松尾本もまさにこの「旅をしながら一緒に考える」というもので、立ち上げ直後だったので驚くと共に触発された。D/R/Tは、「喋り」による創発に重点を置いた感じ。「書かない人類学」は授業を機会に概念化したものだが、まさに同書はその一例にも見えたし、D/R/Tもその一例として論じてみるのも面白い。

授業「書かない人類学」(立教大学社会学部「文化人類学」講義 2019-2021年度)

『あいちトリエンナーレ2019ラーニング記録集』重版出来!記念トークイベント配信!2020.07.29

FM宝塚「Afternoon View」出演 2021年12月14日 藤生恭子(パーソナリティ)

「ふたりでアメリカを〈何でも見てやろう〉ーー「書かない」人類学的実践の現在地 中村寛・松尾眞『アメリカの〈周縁〉をあるく』」『図書新聞』3531号、2022年2月19日。

リサーチとアートのプロジェクト「Dialogue/Research/Trip」ディレクター 2021年7月〜。

 

展示制作の現場にも関わってきた。参与観察から実践を学術的な水準で考える。少しづつその道筋もつけられてきたことはとても嬉しい。とかく炎上的になりがちなーー「論争」ではなく、「ゴシップ」や「イデオロギーの文化戦争」としてーー消費されがちな対象をなるべく大きな文脈で見られるようにしたいと考えているので、こちらは焦らずゆっくり進めたい。付随的に、人々はどこまで高度な教育を受けても、表層で捉えて無責任な理解をするのだと改めて確認できたのも大きな学びだった。メディア=媒介する暴力性への懸念と、資料的制約のなかで参与観察の果たす役割の重要性が結びついた。

シンポジウム「表現の自由と不自由のあいだ」企画・司会 アメリカ学会  2021年6月5日

 

「表現の不自由展・東京」実行委員。2020年4月〜。

 

制作関連では、ウェブマガジンの編集も始めた。研究会のメンバーの活動に引っ張られて「かたち」になってきた。アートと人類学を主軸に、混ぜこぜで不定形なマガジンを目指す〈-oidオイド〉は、今年 3月に立ち上げ。お見知り置きください。取り急ぎの立ち上げになったので、今後もゆっくり整えたい。

ウェブマガジン『-oid』企画・編集 2021年4月〜。

 

もうひとつは、アーティストや研究者の複数で旅をしながら言葉をつむぐ、それを調査や制作のゆりかごにするリサーチプロジェクト〈Dialogue/Research/Trip〉。コロナ禍が緩んだ時期を見計らって、「東日本大震災の表現と記憶」についての調査を緩やかに半年ほど続けている。こちらは公にしていないので早く「かたち」にしたい。コミュニケーションがとても重要になってくるプロジェクトなので余計に。

リサーチとアートのプロジェクト「Dialogue/Research/Trip」ディレクター 2021年7月〜。

 

教育の方だけど、デジタル展示の制作もはじめてやってみた。ゼミ運営で、研究型とワークショップ型を受講者に選んでもらったところ、学生主導で実現した。コロナ禍のミュージアムの活動に関する調査をもとに、ピクトグラムの展示をプログラミング言語で実施。同時期にはICCのヴァーチャル初台など本格的なミュージアムの取り組みも素早く実現していたが、こうしたICT「展示」の活動を少し引いた視座で相対化できたように感じている。

小森ゼミ「武蔵大学ヴァーチャルミュージアム(VMMU)」プロジェクト/企画展「コロナとミュージアムピクトグラムと」2020年11月3日(火)10:00~11月17日(火)23:59

 

この点、現代アートとかメディアアートとか大型ミュージアムの展示モデリングとか、優秀かつ特殊な事例だけに限らず広く見るのが大切だと思っていて、学祭やゲーム、ヴァーチャル渋谷からメトロポリタン美術館コレクション@あつ森まで包括的に見ることで、「デジタル+展示」という行為をただの新たなツールとして終わらせないようにできないだろうかと考えている。『展示学』の論考は、展示の専門家に読んでもらえる媒体なのでそういう趣旨から「ヴァーチャル/デジタル・ミュージアム」総ざらいを目指した。デジタル化自体はかなり流動的ですぐに古くなる対象なので、とりあえず総論で把握する一方で、テマティックな掘り下げを各論で進めたい。権力構造論・政治学、歴史の語り、展示と論争論、パブリックヒストリーと教育機会・公共性、社会運動のツールなどの論点と座りが良さそう。

コロナ禍で変容する「展示の現場」ーー第四のミュージアムのデジタル化」『博物館研究』vol.56 no.9 (no.640)、2021年9月、19-23。

 

 

書いたりしゃべったりやってみたり。2年ほどの「とっちらかし」を振り返ってみた。ところでこの記事は、毎年暮れになると自分の仕事を振り返ってブログで紹介している研究者のエントリーに触発されたものだ。これまであまり意識してなかったけど、やってみて、自分の軌跡を言葉にしながら結びつけ、方向性を定めていく作業なのかもなと思った。定期的にやってみようかと思う。

 

活動一覧

Writings

コロナ禍のフィールドワークとアメリカのカーデモ(前) - コロナ禍のフィールドワーク(連載)」『FENICS』 2020/04/25 

コロナ禍のフィールドワークとアメリカのカーデモ(後) - コロナ禍のフィールドワーク(連載)」『FENICS』 2020/05/25 

東京・代々木「ブラック・ライブズ・マター・トーキョー」デモのエスノグラフィー:ネットで軽やかにフィールドをつなぐこと、「見えない」ものに目を凝らすこと - コロナ禍のフィールドワーク(連載)」『FENICS』 2020/06/25 

ハッシュタグをハックする:K-POPファンのブラック・ライブズ・マター運動 - コロナ禍のフィールドワーク(連載)」『FENICS』 2020/07/25

正義の荒らし?――警察アプリとTikTokをめぐるK-POPファンの平和攻撃 - コロナ禍のフィールドワーク(連載)」『FENICS』 2020/08/25 

パブリックヒストリーが開く虐殺の歴史――オクラホマ州タルサをトランプ集会とHBOドラマ「ウォッチメン」で見る」『FENICS』 2020/09/25 

追悼アダム・シュレンシンジャー:「アメリカ郊外」を笑いに変えるインディーポップマエストロ(前編)」『新型コロナウイルスと音楽産業JASPM緊急調査プロジェクト2020』日本ポピュラー音楽学会、2021年1月12日。

「追悼アダム・シュレンシンジャー:「アメリカ郊外」を笑いに変えるインディーポップマエストロ(後編)」『新型コロナウイルスと音楽産業JASPM緊急調査プロジェクト2020』日本ポピュラー音楽学会(近刊)

「笑い、郊外、インディーポップーーアダム・シュレンシンジャーがコロナ禍に遺したプロデュースの魔法」『新型コロナウイルスと音楽産業JASPM緊急調査プロジェクト2020(仮題)』日本ポピュラー音楽学会(近刊)

なぜオルタナ右翼はマンガのカエルを「神」として担ぎ上げたのか?:「カエルのぺぺ右翼化事件」を考える講談社現代ビジネス、2021年4月22日

「アウトサイド」からアメリカを映す――『ノマドランド』のイエ・シゴト・タビ」wezzy 2021年6月5日

コンクリートジャングルのカウボーイとカウガール 白く塗られた黒人馬乗りの歴史を「修正」する」wezzy 2021年7月3日

お化けと差別に背筋が凍る ドラマ『ゼム』が描く住まい・契約・トラウマの人種主義」wezzy、2021年8月6日

『ユダ&ブラック・メシア』とH.E.R.〈Fight For You〉――映画を深める二つのミュージックビデオを読む」wezzy、2021年9月18日

投票の前には「まだ見ぬアメリカの夢」を観る――選挙と〈アメリカン・ユートピア〉」wezzy、2021年10月29日

「ふたりでアメリカを〈何でも見てやろう〉ーー「書かない」人類学的実践の現在地 中村寛・松尾眞『アメリカの〈周縁〉をあるく』」『図書新聞』3531号、2022年2月19日。

デジタル・ミュージアム・研究――デジタル時代のミュージアムとモノと場所 」『立教アメリカン・スタディーズ』立教大学アメリカ研究所、40号、2018年3月、57-89。

遺体が芸術になるとき――医学博物館が拡張する「芸術」と医学教育の倫理」『民族藝術学会誌 Arts/』民族藝術学会、vol.37、2021年3月31日、126−139。

コロナ禍で変容する「展示の現場」ーー第四のミュージアムのデジタル化」『博物館研究』vol.56 no.9 (no.640)、2021年9月、19-23。

「女性史美術館へようこそーー展示という語りと語りなおし」『人文学のレッスン』小森謙一郎、戸塚学、北村紗衣共編著、水声社、2022年。

「マンガは熱くないうちに蒐めろ――ミュージアムにおけるマンガ研究」『京都精華大学紀要』第54号、京都精華大学(近刊)

 

Talks

「災害の記憶――美術館・博物館・モニュメント」「パブリックヒストリーの現在と未来 第一部 拓かれる様々な可能性」パブリックヒストリー研究会二周年記念研究大会、2021年3月29日

「語りの空間、ミュージアム アメリカ合衆国を「ミュージアム研究」で見る」夢ナビ講義

「美術史に「女性」をとりもどす アートと美術館のアクションから学ぶジェンダーと歴史」NPO法人The F-Word 2021年6月21日

「コロナ禍におこる社会運動の〈かたち〉」武蔵大学公開講座、2021年10月30日 

授業「書かない人類学」(立教大学社会学部「文化人類学」講義 2019-2021年度)

『あいちトリエンナーレ2019ラーニング記録集』重版出来!記念トークイベント配信!2020.07.29

FM宝塚「Afternoon View」出演 2021年12月14日 藤生恭子(パーソナリティ)

 

Projects

リサーチとアートのプロジェクト「Dialogue/Research/Trip」ディレクター 2021年7月〜。

「表現の不自由展・東京」実行委員。2020年4月〜。

ウェブマガジン『-oid』企画・編集 2021年4月〜。

武蔵大学ヴァーチャルミュージアム(VMMU)」プロジェクト/企画展「コロナとミュージアムピクトグラムと」2020年11月3日(火)10:00~11月17日(火)23:59