「女性史美術館へようこそーー展示という語りと語りなおし」 分担執筆した『人文学のレッスン』が水声社から出ました(サンプルあり)

ジェンダー×美術館×アートで「歴史」の偏りを考える、という感じの論考です。書籍は次年度から始まるリレー講義の教科書として編まれたもので、授業で引きのあるネタを集めたものですが、調査次第では学術論文としても書けるし、もっと書かれた方がいい主題だと思っています。

 

「女性史美術館へようこそーー展示という語りと語りなおし」『人文学のレッスン』小森謙一郎、戸塚学、北村紗衣共編著、水声社、2022年。

 

記事の冒頭4ページと目次:

人文学のレッスン_小森真樹_配布用.pdf - Google ドライブ

 

概要:

ジェンダー的バイアスについて批判的に美術史を読み直す方法について、ミュージアム研究および女性史の観点から論じた。現代美術作品、美術展キュレーション、及び、美術品収集・美術館創設の事例から、美術史において隠されてきた「女性」の影響力を再評価し美術史を是正する試みについて紹介した。さらにより近年の事例として、ミュージアムにおけるICT技術利用の取り組みも取り上げ、デジタル化が展覧会による歴史の語りにもたらした貢献についても議論した。

 

www.suiseisha.net

『アメリカの〈周縁〉をあるく』(中村寛・松尾眞著)の書評を『図書新聞』に書きました

「ふたりでアメリカを〈何でも見てやろう〉ーー「書かない」人類学的実践の現在地 中村寛・松尾眞『アメリカの〈周縁〉をあるく』」

図書新聞』3531号、2022年2月19日。

 

書評へのリンクです。

編集部のご好意で、拙記事はここからDLできるようにさせていただきました。

20220219_アメリカをふたりで〈何でも見てやろう〉 「書かない」人類学的実践の現在地_図書新聞_小森真樹.pdf - Google ドライブ

紙面全体は登録で読めます。

www.toshoshimbun.com

 

 

とてもオススメ。ワクワクして旅に出たくなってしまう、コロナ禍では困った本です。

中村寛・松尾眞『アメリカの〈周縁〉をあるく』平凡社、2021年。www.heibonsha.co.jp

 

香川1区に観る「楽しい政治」 大島新『香川1区』/ダースレイダー+プチ鹿島『香川1区ナンデス』

「楽しい政治」コンテンツが豊作だった香川1区

 昨年の衆員選では選挙区香川1区が、政治エンタメの宝庫となっていた。たとえばライターの和田靜香さんが立て続けに出版したルポルタージュ。10月18日から31日まで衆院選公示から投票日まで高松から送る選挙日記と、同区を基盤とする小川淳也議員へのインタビュー本。コロナ禍で貧困と隣り合わせで過ごす人々の代弁者として、政治が専門ではないライターが政治家に問いかける。政治が日常に引き寄せられていく楽しい読書経験。

 ダースレイダーさん・プチ鹿島さんコンビによるYouTube番組ヒルカラナンデスは、キレッキレの政治・社会コメンタリーで知られる。その選挙特番『香川1区ナンデス』も最高傑作だった。選挙の最終日を挟んだ四泊五日、現地での取材を「イベント/配信/Twitter」などマルチなチャンネルで逐一発信。多数派政党や地元を牛耳るマスコミに切り込んだ突撃取材。苦笑するしかないグロテスクな現実をあぶり出し、風刺批評で笑わせる。政治ドキュメンタリー、選挙ジャーナリズムの新しいかたちにも見えた。

 この番組を筆頭に、コロナ禍ではouTubeやPodcastなどで多くのトーク番組が登場してきた。評論や報道からお笑いのネタや現場レポートまで、大小多くの政治ネタを扱うコンテンツも増えた。選挙の期間のまっただ中、あるいは興奮冷めやらぬなか、選挙や政治について深く楽しくエンタメするコンテンツが、これほど多く生まれたことはあっただろうか。少なくとも筆者にとっては、このリアルタイム感は初めての経験だった。

 

「主題」からかんがえる:『なぜ君は総理大臣になれないのか』と『香川1区』 

 一足先に話題になっていた、同香川1区を舞台にした『なぜ君は総理大臣になれないのか』もとても楽しい映画だった。 ポレポレ東中野などいくつかの劇場から火がつきジワジワとロングランを続け、現在全国86館となっている。政治のドキュメンタリーがなぜ?と一部では驚かれてもいたが、その異例の拡がりは「エンターテインメント」だという面が大きいだろう。

 そして、大島新監督が驚くべき早さで公開した続編も、そんな「楽しい政治」の映画だった。衆院選の投開票が10月31日で、公開が12月24日である。楽しさも手際の良さも、元テレビマンの手腕だろうか。

 さて、本作は何を描いたものなのか。本稿ではこれを「主題」から考えてみたい。

 まずは、前作『なぜ君は総理大臣になれないのか』の主題はなんだったか。疑問文でつけられたそのタイトルは、主題を強調したものだといえよう。無粋にもそのレトリックをひもといて、あえて絞り込んで言うならば、以下のようになるだろうか。

 

「代表制民主主義」体制のはずのこの国においては、政策に関して知識や理念があり、政治家としての経験もあり、また誠実さや高潔さを大切にする人物が、なぜ「組織」の後押しなしには国民の代表に選ばれないのか?

 

 政治における能力・経験・倫理とは、民主主義における「敗者(=小川の言葉では「49%」)」とはなにか、そして政党政治の限界や腐敗などの問題が問われていた。そこには、日本の政治では「正しさ」がなぜこうも通用しないのかという思いが滲み出ていたと感じる。大島監督もこう述べている。「私はなぜこんなに真っ当で優秀な人がうまくいかないのか、このままでは小川淳也という人的資源の無駄遣いではないか、とまで思い始めていた。浮かんだタイトルが『なぜ君は総理大臣になれないのか』。」

*1

 

phoiming.hatenadiary.org ※過去にこのブログで取り上げた時に、地方都市と家族の政治参加について気になったと短評を書いた

 

 さて、本作は? 大島監督は、小川氏を追っているうちに、なぜ対立候補の平井氏や自民党がこれほど支持を得ているのかを知りたいと思うようになったと述べている。そこにはどのような「合理性」があるのかを理解するために取材をはじめた。たしかに、基盤を崩すことがない選挙での自民党の強さを描いている。なぜ自民党はこれほどに選挙で勝利を続けているのか? これが映画の主な問いかけだろうか、ひとまずこれに沿って映画の焦点を見ていきながら、作品の主題について考えてみる。 

 舞台として言えば、選挙戦についての映画である。十七年間という長期間小川淳也を追い続けた前作とは異なり、明確にある特定の選挙期間が映し出されている。「選挙」という制度からあぶり出す「日本の政治」である。撮影の対象は、選挙=政治的キャンペーンという、より短期間で政治の特徴が具体化する期間だ。三名の候補者だけでなく、政党、選挙組織、ボランティアや支援者、メディア、家族や友人、候補者周辺へもカメラを向けられている。

 この舞台装置の中で、本作が自民党=平井氏の強さを描いた焦点は、以下のようなところである。メディアと政治、経済が三つ巴となってある地方の「一族」を何代にも成していること。各種組織票から生まれる基盤、地元に必要なニーズへ細やかに応える体制およびそのポーズ。地域コミュニティの人間関係に根ざした集票。政党政治の勢力図における与党(+連立政党)の立ち位置に対して、連携基盤が作れない野党という政治戦略の現状。多数派に有利にはたらく、無党派層有権者の無関心……。

 ジャーナリズム的に貴重な場面もある。ひとつめは、いくつかの自民党を支持する企業が、その社員に対して期日前投票の「誓約」申告をさせる仕組みがあり、それもその会場が自民党議員の関連団体による借り入れ(原資は当然税金である)になっている、その現場を押さえたところだ。

 もうひとつは、支援会社が「10名」分で購入することになっているパーティ券が、党からは「3名」の出席者のみを出席させるように「暗に」示されており、残り7名分は使途不明金としてプール可能になっていることが判明する場面。これらは、「会社組織が自民党の基盤となる」と言ったとき、具体的にはどのようなことが起こっているのかを捉えている。政治資金規正法に触れると思しき行為だが、書面が「暗に」示しているあたりは、おそらく厳密には罪に問えない予防策となっているのだとも想像される。映画のなかで大島監督ら撮影クルーも自民党議員事務所に問い合わせているが、その返事はない。

 仮にこれで考えてみると、一見すると次のような主題に収斂していくように見える。

 

日本の選挙において、なぜ歴史を通じて第一党のみが圧勝し続けるのか? 政治における選挙制度のほころびはどこに現れるのか、現れ始めているのか?

 

 もしこの線での主題をタイトルにするのであれば、『なぜ自民党の政治家は総理大臣になれるのか?』なのかもしれないが、しかし本作にこの題をつけるには違和感を感じてしまう。やはりこの映画は、『香川1区』なのだと思う。それはやはり、日本の選挙制度と政治において「自民党なるもの」を支えるシステムにのみ焦点を絞った映画ではないからだ。

 

「立憲小川VS自民平井」の勧善懲悪活劇? 

 もちろん「なぜ自民」が主題のひとつであることは疑いようもないが、本作の中心となる主題とはなんであろうか。やはりそれは、「立憲小川VS自民平井」の勧善懲悪活劇と言えるのではないだろうか。今回の作品は、無敵無敗の自民党に対して、対立候補が「勝利」を収めるというストーリー仕立てとなっている。

 「メディア一族が蔓延る地域の大保守政党政治家」、対、「一介のブルーカラー出の真っ直ぐすぎる努力の政治家」。最後に「正義」が勝つ。

 「物語」としては痛快だ。しかし同時に、現実を描く「物語」としてはあまりに図式的すぎるとも言える。

 本作の「楽しさ」は、シーンの順序、時間の配分、構成などといった物語をドキュメンタリーで描く際に「映画として成立」させることを重視するという監督のバランス感覚に由来しているだろう*2。「楽しさ」はときに図式的で「わかりやすい」点から生まれるし、本作の爽快感は勧善懲悪活劇的なつくりからも生まれている。 

 

「対象」と「主題」を切り分けてみる 

 しかし、それだけで評価するのは一面的ではないか。先に挙げた監督の関心ともずれるように感じる。「もったいない」と思う。

 この映画は、多かれ少なかれ「右左」や「敵味方」の対立の映画として見られてしまっている。選挙政治というもの自体が敵対的なものだから、余計にそう見えやすい。

 撮影するプロデューサーが被写体から「立憲の****(プロデューサーの名前)」と根も葉もない言いがかりをつけれられ、恫喝されて撮影を邪魔される。選挙の後半戦、余裕がなくなった平井陣営は関係者に「映画撮影禁止」のお触れを出す。公共空間での選挙演説から撮影隊を排除し、『なぜ君』を「PR映画」と呼ぶ。大島監督からの抗議も無視。そこで大島に野次を飛ばすNHK取材班は、平井氏の選挙活動を密着取材できる陣営側だ。これらの場面は敵対化の極北である。

 本作の受容も、「対立」の枠組みで理解される傾向がある。映画評やSNSなどには、「敵=自民」を腐すものよりも「味方=小川」を評価するものが目立つ。小川の「正義」を讃えるものや、日本の民主主義再生の萌芽を見るもの。「でもやはりこれは小川のPR映画と呼ばれても仕方ない」といった見方も散見される。

 しかし、もっと抽象的な主題の水準(subject)で考えるべきではないか。「なぜ第一党のみが圧勝し続けるのか、どのような変化が見られるのか」といった、大きな問題こそが大切なのではないか。監督もそのように感じているからこそ、「(小川陣営の)PR映画ではない」と、平井氏にはっきりと自信を持って抗議する。この点に肉薄することが、本作の真の「楽しさ」なのではないかと思う。

 ドキュメンタリーの制作倫理観について、大島監督は次のように語っている*3。監督自身など撮影の主体を画面に組み込むことで、映像が「つくりもの」であることを意識的に明示して、映画は現実を撮影したものを編集素材にしてはいるが、制作者によるひとつの見方の提示だと示す。つまり、“粉飾”した「客観性」を説得力の道具にしないという意志である。自分の思う正しさを押し付けたり詐術で信じ込ませるのではなく、観客に誠実に、問うているのである。

 一方で、このような対立図式に単純化される構造があるのは否めないだろう。あまりにも実際の選挙から日が浅い。配給の契約も劇場公開からの近いことが条件になっていたというように、興行上そのように売られる構造になっていた。つまり、単に誤解をされてしまったというよりは、送り手としても、受容の「型」の可能性として「左右=敵味方が戦う選挙映画」として提供してもいよう。結果、具体的な対象のレベル(object)に観客の意識は向けられてしまっている。「誠実」な大島監督が「誠実」な小川氏に共鳴したところが作品に滲み出るのも手伝って、よけいにそう見える*4。対象ではなく主題、具体より抽象として観ると、もっと豊かなものが得られるのではないだろうか。 


「二項対立」の甘い蜜 

 ある物語は、「白黒」や「左右」といった単純な枠組みにいとも容易く回収されてしまう。そんな現実が、本作の受容に鮮明に反映しているように見える。政治や選挙は、とりわけ極化しやすいものである。

 選挙の熱狂は、スポーツのそれに似ている。小川陣営「勝利」の場面で熱狂を感じなかっただろうか。この国ではスポーツで一喜一憂する楽しみを知る人は多いが、選挙で勝ち負けの熱狂を楽しむ人々はあまり多くはない。その身を預けた代表者の「勝敗」がはっきりする、擬似競争の楽しみだ。

 本作は、スポーツのように、選挙を「白黒」の図式に回収することの危険性についてもっと問うべきでなかったか。そこにも、「なぜ第一党のみが圧勝し続けるのか」という問いに答える糸口もありえたのではないか。

 「勝利」する小川議員を通して語りうる主題は、むしろ「51対49」の理念だったかもしれない。にもかかわらず、勝ち負けという、「対象」の水準で考えたくなるつくりで映画は終わってしまう。「バイナリー(二項対立)の蜜」は甘い。没入した観客を、最後に突き放す構成はどうか。本作でふたつの極に見えた「立憲民主党VS自民党」という二大政党制や「リベラル対保守」という構図は、果たして現在の日本で機能しているだろうか? 


「どこかの国の政治」の映画として見る

 ひとつの提案として、「どこかの国の政治」についての映画として観てはどうだろうか。主題を捉えやすくならないか。というのは頭の体操だとしても、現実的には、海外で上映された際の反応が楽しみである。大島新監督が選挙について撮ったこの2作は、想田和弘監督の『選挙』と並ぶ、「選挙という日本文化」についての映画の巨塔となるだろう。『選挙』を通じて想田監督は、文化人類学的に「外からの目」日本の選挙を描いた。『香川1区』も海外の映画祭などで「どこかの国の政治」についての映画として観られたとき、「右」とか「左」とかではなく正しく観られるはずである。

 もうひとつの現実的な提案は、時をおいて観ることである。1年後、5年・10年後、もっと時間が経ってから、日本の政治と社会にかかわる「わたしたち」が観るという楽しみだ。『香川1区』(と香川1区ナンデス)が描いたグロテスクな現実が「過去のもの」になっていることを期待して待ちたい。

 

関連作品

大島新監督

『香川1区』  https://www.kagawa1ku.com/
『なぜ君は総理大臣になれないのか』http://www.nazekimi.com/

 

ヒルカラナンデス(ダースレイダーxプチ鹿島

ダースレイダー x プチ鹿島 #ヒルカラナンデス (香) 第78-1回 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=j5HHUxffGvk
ダースレイダー x プチ鹿島 #ヒルカラナンデス (香) 第78−2回 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=4LWsuhSXejU
【香川1区ナンデス】 | ZAIKO https://zaiko.io/event/343931
ダースレイダー x プチ鹿島 #ヒルカラナンデス (四) 第79回 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=CO2YFyIsEEg
ダースレイダー x プチ鹿島、大島新 なぜ君は総理大臣になれないのか視聴会 #ヒルカラナンデス - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=oTMmWabiUsU&t=949s

 

和田靜香著作

「時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?」左右社 note https://note.com/sayusha/m/mb7445a8b4ba5
『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか? 国会議員に聞いてみた。』 左右社 http://sayusha.com/jikyu/

 

 

*1:大島新「「まさか午後8時に当確とは…」注目選挙区・香川1区で『なぜ君』監督は何を目撃したのか」文春オンライン 2021.11.05 https://bunshun.jp/articles/-/49837?page=2

*2:「「香川1区」から見える日本の民主主義の現実|昨秋の総選挙で全国再注目選挙区だった香川1区。異なる視点で同選挙区の争いを見つめた映画監督とライターに聞く|ゲスト:大島新、和田靜香(1/5)」ポリタスTV 2022/01/05 https://www.youtube.com/watch?v=B5COPXbiLC0

*3:「香川1区ナンデス」や、「座・高円寺ドキュメンタリーフィルムフェスティバル NNNドキュメント’14「反骨のドキュメンタリスト 大島渚『忘れられた皇軍』という衝撃」上映トーク是枝裕和、鈴木あづさ、大島新)」など。

*4:大島監督は、これまで基本的には「自分が興味関心があったり好きな対象に取材することをしてきた」とも述べる。ポリタスTV 2022/01/05 https://www.youtube.com/watch?v=B5COPXbiLC0 

FM宝塚「Afternoon View」に出演しました

ラジオ番組にお邪魔しました。

日本国内では珍しい「ミュージアム研究」を学べるゼミについて知ってもらえたらと思い、授業や研究についてお話ししました。

宝塚市のFMということで、打ち合わせでは宝塚ネタはないかなという話になり、そういえば今まで一度だけ観たことがある宝塚歌劇団がニューヨークでの逆輸入公演だったとか、最近進めている研究が「ミュージアムにおけるマンガの展示・収集」についてだとかいう話題で盛り上がり、2019年大英博物館のマンガ展で手塚治虫が紹介されていたことや2016年ブロードウェイ・リンカーンセンターでの宝塚公演についてお話しました。

初のラジオ出演も楽しかったのですが、リクエスト曲が初めてFMの電波に乗ったことが嬉しかった! フィラデルフィアに住んでいたミュージアム研究者として、「ミュージアム+フィラデルフィア」といえば選曲はコレ!

 

ビル・コンティ「映画ロッキーのテーマ Gonna Fly Now」

www.youtube.com

 

番組名:FM宝塚「Afternoon View」
放送日時:12月14日(火) 15:00~18:00(出演予定時間は17:20から)
出演者:藤生恭子(パーソナリティ)
※インターネット、アプリ「サイマルラジオ」で同時放送
http://835.jp/simulradio/

www.musashi.ac.jp

 

帰り道で思い出したこと

想田和弘の観察映画「以外」を短くレビュー/「日常を「観察」する映画作家・想田和弘の仕事」11/14~11/23 東京・シネマハウス大塚

想田和弘監督作品のレトロスペクティヴが、今日からシネマハウス大塚で開催されます。DVD化や配信されていない『牡蠣工場』をはじめとして、スクリーンで一挙上映される非常に貴重な機会となりそうです。

想田監督は、先行する「ダイレクトシネマ」などの言葉が持っていた一種の「古めかしい」印象を払拭するために「観察映画」という用語を作り、独自の定義と「十戒」に基づいて制作を続けていることで知られています。(監督自身の著作のほか、シーラ・ガーラン・バーナード『ドキュメンタリー・ストーリーテリング増補改訂版』2020、フィルムアート社での監督へのインタビューなども参考)

本稿では今回の上映に合わせて、観察映画「以外」の短編群について短くレビューしていたものを公開します。

 

 

『ニューヨークの夜』 1995年|10分

劇映画だとだけ聞いて観たのだけど、まさかのコント風コメディで衝撃を受けた。人種民族・階層に対して与えられるステレオタイプを風刺したもの。製作されたのはWindows95発売年であるが、インターネット普及前夜の日本では、これは風刺ではなく「ニューヨークってこんな多様性のある街」と受け取られたりもしたのかも?などとも妄想した。サイケでオシャレでもある。なんとなく小劇場演劇っぽいムード。

 

『花と女』 1995年|5分

これもまた劇映画。エロスである。切なさもある。何気ない日常に狂気を見出す。タイトルは「花”と”女」だが、最後のオチで自分が観ていた焦点がズラされるのが心地よい。サイケデリックと観察映画をつなぐ線ともとれる作品。

 

『The Flicker 1997年|17分

カメラマンを主人公にして、「世界を撮影して記録すること」を主題にしている劇作。タイトルのflickerという言葉には「映画」という意味がある。後にドキュメンタリーを主軸とする監督が、撮影倫理や、映像による記憶の虚構性をこの時期に描いていたことは特筆すべきである。コミカルさも残した小品は、映画を撮影する者ーー登場人物であり監督/カメラマンーーに対して、「反復は虚構にすぎない」と突きつける被写体のカメラ目線のカットで終わる。

 

『The Laboratory of Dr. X』 2003年|18分

狭いスタジオで即興的に絡み合うダンスとギター。ピエロ的な装いやマイムなど、アメリカの街中でよく見かけるストリートパフォーマンスのよう。ダンサーは監督の公私のパートナーである柏木規与子さん。

 

Home(想田和弘による311秒の短編』2011年|3分11秒

河瀬直美監督のコミッションによって2011年に製作された。”A Sence of Home(ホームの感覚)”をテーマに撮られた3分11秒の短編集の一編である。動植物たちに接写した映像、人間=ヒトが生活する雑多な音から「或る日本の農村部の風景」が立ち上がる。「個」へのミクロなクローズから「世界」を映す。この順序が重要だと感じた。終わりに聞こえる「ただいま=I’m home」の声は口から溢れるような発話だが、何かしらの「宣言」のようにも響く。

 

以下の二作も今回の上映作。極めてプレーンなダンスの記録映像。

『サイドウォーク・ソナタ』 1996年|8分

『「プライマリー・ステップス」からのソロ』 1996年|2分

 

今回の上映作ではないが、監督がNHK用に製作したこれも観たことがある。アートによるジェントリフィケーションとその現場での軋轢を扱ったものだったと記憶している。

『真冬の111番地』 2005年 |20分

 

その他公式ウェブサイトで観察映画以外の製作リストを観ていたら、 NHKのドキュメンタリーシリーズ「NewYorkers」でインタビューした中に、硬派で良質の独立系報道番組「Democracy Now!」のキャスターで知られるジャーナリストAmy Goodmanの名前が! これはいつか観てみたい。

www.kazuhirosoda.com

www.democracynow.org

 

観察映画の作品は『選挙』でファンになって以来欠かさず観てきた。月並みな感想だが、その源流が見られたことはとても興味深かった。初期の劇作は習作のようなものとみるべきかもしれないが、「ドキュメンタリー」とは異なる枠組みで「映画」というジャンルや様式について非常に自省的に考えている痕跡が見えたことが大きな発見だった。

その鋭い筆致で社会評論やSNSで影響力を持つ言論人としても知られる想田監督であるが、様々な発信のチャンネルやメディアの特性を理解し、常に方法について自覚的に表現しているのではないか。多彩なジャンルで表現を試作したような作品群を観る機会を得て、そんなことを感じた。

今回はミニシアター・エイドの企画でこれらを観ることができた。(以前書いた、エイド基金、仮設の映画館についての記事と、『精神0』の感想も貼りつけておきます。)劇場でのレトロスペクティヴの方は昨年からのコロナ禍で二回連続でキャンセルになってしまったが、今月のレトロスペクティヴは三度目の正直となりそうでとてもメデタイ。

 

phoiming.hatenadiary.org

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「コロナ禍におこる社会運動の〈かたち〉」武蔵大学公開講座

武蔵大学公開講座でお話をしました。

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「コロナ禍におこる社会運動の〈かたち〉」と題して、コロナ禍に揺れるアメリカの社会運動についてその方法に着目して紹介をしました。

 

コロナ禍では命の人種間格差が可視化されましたが、ブラック・ライブズ・マター運動の世界的拡大以降とくに問われ始めた「誰が、どのように歴史を記憶すべきなのか」という問い、それに答える方法としての記念碑や博物館ではどのような運動がなされているのでしょうか。また、ソーシャルメディアが人口に膾炙するなか、社会運動や歴史の語りはどのような変化が見られるのでしょうか。

 

パンデミック現代社会」をテーマにした連続のリレー講義の最終回、他学部の先生の発表のあとだったのでオーディエンスの反応が読めませんでしたが(ヴァーチャル株主総会とかの話の回もあった)、幸い興味深く聴いていただけたようです。色々と質問もいただき、ブラック・ライブズ・マターやSNS炎上への関心が高まっているのだとも実感しました。

 

www.musashi.ac.jp

【連載】投票の前には「まだ見ぬアメリカの夢」を観る――選挙と〈アメリカン・ユートピア〉

選挙前の今回は『アメリカン・ユートピア』を取り上げました。

 

投票の前には「まだ見ぬアメリカの夢」を観る――選挙と〈アメリカン・ユートピア

(記事ダウンロードリンク)

wezz-y.com

 

「地方選では20%の投票率だから、2割の人だけで社会を回しちゃってるよね」っていうくだりが改めて心に響きます。ここいらは、学生に選挙の話をしながら、全然成立していないニッポンの「民主主義」や「国民主権」についてよく考えます。選挙だけでなく、ファシズムとかBLMとか当事者性とか社会のことを楽しく考えさせてくれるハッピーな演劇/映画です。

 

初めて観たのがちょうど都議会選のときで、投票前に観てめっちゃアガりました。衆院選前に観る機会は明日か明後日だけですが、投票と合わせてぜひ。(昼に川越スカラ座、夜に渋谷パルコで上映。英語版はGoogle Playで配信中)

 

アメリカン・ユートピア
演劇脚本・主演・演出デヴィッド・バーン
映画監督スパイク・リー/2020年

 

#楽しい政治 #楽しい選挙 #衆議院選挙2021 #衆院選2021