マグロになってインチキなホンモノについて考える: Disney World Resort, Celebration, and Ripley's Believe It or Not!

ようやく論文が一段落ついたので計画を立て直してリサーチへ。

 

●Disney World Resort 言わずとしれたディズニーの本拠地。ディズニーワールドを含む各アトラクションが巨大な街を形成している。本調査地ではないのでアトラクションなどには入らないことにしたが、テーマパーク版万国博覧会のようなepcotなどとても興味深い。ホテルやチェーンのレストランが並んだロードサイドを抜けて、大きな公園のエントランスのようなところからリゾートのエリアは始まる。信号が青になるとものすごい量の車が魚のように出入りして行く。僕も一匹の魚になってその中に入っていく。ひたすら走る。広さがだんだんとつかめてくる。しかし全ての道は各アトラクションへの通路に過ぎなくて、入園しない僕は止まることができないマグロになってしまった。駐車だけでも出来る場所を探してアトラクションのエントランスまで行ってみるが、駐車場のゲートでけっこうな料金を払わないといけなくて諦める。当たり前だけど、お客さんだけが使える街である。当たり前なのだけど、タダでぶらぶらできないことに違和感を覚えてしまうのは、この「街」があまりに広く、テーマパークにつきものの「ゲート」を感じられないからなんだろうか。厚い境界をインビジブルにすることによってホンモノの街に近づけているのだろうか。
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●Celebration
そしてディズニーは、リゾートの隣りに本当の街を作ってしまった。ディズニーワールド計画でウォルトが夢見た、「本当にアメリカらしい伝統的な小さな町と、テクノロジーの融合」が本当に実現してしまっている。社会学者や都市工学の専門家たちのチームがプランニングし、ホテルや大学、病院、レストランやカフェのあるダウンタウンもある。第一回分譲が1996年。ゲーテッド・コミュニティ同様に行政単位も州郡市などと異なる。
そこには人々が暮らしているはずなのだが、人の気配もなにもない空間。ドラえもんとかSFで出てくるパラレルワールドか自動車教習所のよう。一回りしたあとにダウンタウンに行ってみると、そこは割と観光地化してた。とはいえコミュニティの空間として機能している(つまり近所づきあいがある)ことになぜだか驚いた。DTは公園と隣接していて、そちらも併せて多くはコミュニティの住人が利用している雰囲気もある。なんか近所でビジネスやってる同士の人が仕事帰り食事前にスタバで駄弁ってて、そこに偶然友達も来たりして。広大な敷地の内側で店があるのがここだけということもあるのかもしれないが、やはりゲート内側の安心感があるのではないだろうか。
あらゆるアメリカの街の要素が揃っている場所。事故と犯罪を除いては。(とはいえ数年前に自殺が一件あったらしい)
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どこで撮影をしてもうそ臭い画が撮れてしまうことには、気持ち悪さを超えて凄いとさえ思った。なんとか写真に生活感を出そうといろいろな対象にレンズを向けてみるのだが、ことごとく失敗。ゴミ一つなく綺麗だからなのか、すべてがそれ「らしい」デザインだからなのか。空間設計の面でも驚くべき空間だ。
我々にとって、リアリティとはいかに構築されるものなのだろうか。アウラのような一回性が「歴史」ということなのか?だとしたら、アメリカの古都・「歴史的」建築に見られるフェイク感はいったい?植民地期の史跡、建築やミュージアムで補修された資料を見たときに、「どうしてこういうキッチュなことしちゃうんだろう?」と本気でわからなくて悩むことが多いが、もとより一回性的な歴史の真正さを信じてないんじゃないだろうか。どっかで諦めているのではないか。(どうせ本家の欧州より歴史ないし、って)最初から諦念の上に立って合理的につっこんでいく、そんな気すらする。
ここの教会とか時計台とかなんだかコロニアル・リバイバル調なんだけどそりゃあもうキッチュ。まったく同じスタイルを使ったゴルフ場の建物があったりと、中身と外身も全く関連しない。どうやら歴史性を無視した引用を得意としたポストモダニズム建築家たちが揃って参加しているらしい。
映画「トゥルーマン・ショー」のセットと勘違いされることが多いらしいけど、あれってリアリティ・ショーの話だよね。皮肉にも、リアリティ(それらしさ)を追求していくとどんどんリアル(現実)からはズレていくということだろうか。ボードリヤールは『シミュラークルとシミュレーション』で「ディズニーランドとは、<実在する>国、<実在する>アメリカすべてが、ディズニーランドなんだということを隠すために、そこにある」と皮肉たっぷりに述べたのはたぶん隠喩だろうけど、実際には、ディズニーランドには「ゲート」があって、ディズニーリゾートはチケット制という「見えないゲート」があって、セレブレーションは「不動産購入(できるかどうかの階層)」という極めて抽象的なゲートの設定によって、非現実と現実が混乱しはじめてているんじゃないだろうか。
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驚嘆する一方で、こういうことはそれほど珍しくないとも思う。昨日ちょうど、植民地期のマーシャル諸島について書かれた博論について友達と話していたんだけど、そこでは本国アメリカ以上にアメリカらしい「ハイパーアメリカ」な文化が熟成してしまっていたという議論らしい。リアル不在で想像力が働くほうが、リアリティが求められてそうした世界が創造されていく。
 
Celebrationのダウンタウンは、割とまあまあなレストランばかり揃っていて、Italian, Thai, Japanese, American Diner, Soda Fountain, Boston Tavern...と各地域の料理が揃っていて(それこそ「テーマ」だよね。ホテルはキューバ風)イタリアンで食べたピザは安いわりにかなりよかった。日本料理を見たら過激にオリエンタルでさらにフュージョン系のような感じだったので、オーセンティックに思えたイタリアンもけっこうそんな感じなのだろうか。流行した時期が違うか。
この時点で既に非常に疲れて帰る予定だったが、タイミング的に外食したらちょこっと元気になった。なんと12時まで開いているミュージアムがあるのでそこに向かう。
   
●Ripley's Believe It or Not!
20世紀前半の時代を生きた漫画家・壁紙新聞作家・素人人類学者ロバート・リプリーによる各国の「珍奇」コレクションを元に、人を驚かすことをテーマに展示をしているミュージアム。これが、行楽地に必ずある北米チェーンのハイパーエンタメ施設として運営されているという(香港などにもある)、何がなんだかよくわからない「ミュージアム」。(経営がカナダの会社に移ってからかなりキッチュな感じになったみたい)
ミュージアムの歴史を考えるときに、「ミュージアム」「博物館」という名がついた単なる娯楽施設は数多くあるが、そういった類の保存・蒐集・研究をなおざりにしている素人や企業の展示施設とも違う、むしろ別の明確なコンセプトに基づく活動が商業主義によってドライブしているような、そんな珍奇な施設である。基盤がリプリー氏のコレクションにあるだけに、キャプションやコレクションのホンモノさが質を高めている。
「現代に残るハイパーエンタメ見世物小屋」あるいは"An Alternative History of Ideas"とでもいえようか。
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かなり面白い論点が満載。長くなるので詳述はしないけど、気になっているのは:
 
・The Mutter Museum同様に、生死を展示することが娯楽化・商品化されている点。Mutterが「科学」の娯楽施設だとしたら、Ripley'sは「疑似科学」の娯楽施設。後者にも科学的真実はたくさん混じっているため、展示されるモノが全く同じというケースが多々ある点が興味深い。ミュージアムという展示施設を媒介に、ナラティヴ(物語)とマテリアル(素材)の関係がどう取り結ばれているのかという好例。
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・また、folk art、outsider art, tribe artなどと呼ばれた対象がいわば「おもしろアート」として紹介されているのも同じ論点を抽出できる。Baltimoreで訪れたVisionary Art Museumや人類学的博物館とは全く異なる文脈・ナラティヴだけど、いずれも観客は「見世物」「娯楽」として消費しているのではないだろうか。
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文脈としてこうした見世物小屋的なものが商業主義に乗って、それも「ミュージアム」として未だ生きているということ。ここに展示された物品は、他のミュージアムでは美術品(artwork)であったり博物誌的器物(artifact)であったりする。しかしここでは超娯楽施設の見世物として消費されている。科学も宗教も倫理も全てうっちゃって、「おもろい!」の基準だけで偏執的にトリビアルを集積すること。パネル文のキャッチコピー、"Believe It or Not!"(信じられないかもしれないけど…)の一言で、それらは棚上げされるのである。