●The Holyland Experience
今日のハイライトはこれ。
キリスト教というだけではなく「聖書世界」をテーマにしたテーマパーク。アミューズメントにつきものの乗り物のアトラクションなどはなく、基本的には聖書の世界の再現にひたすら努めている。
ユニバーサル・スタジオからもほど近い、テーマパーク観光地区に位置する。
なんと「宗教にかかわらず」を公式ウェブサイトで謳っている。この点がどうも不思議で、単にだれでも来てイイよということなのか、宗教にかかわらずJesusの加護は受けられるよということなのか。
実際にそれを「体験」しにきたわけである。
はじめのうちは、テーマパークというものに慣れていなくて、どうやって分析していいのかちょっと戸惑う。解析・把握・意義づけに迷うとは思わなかった。不覚。いろいろと園内を巡って模索していると、ひとつひとつの意味が見えてくる。さらに他のミュージアムと比較していくうちに、掴んだ感触が出てきた。
聖書時代(紀元前66年)の街並みの再現や当時のナザレの丘の模型、また聖書を題材に演劇、ゴスペルコンサートなどのライブパフォーマンス、子供向けの遊具やワークショップ、聖書の歴史を学ぶミュージアム、蝋人形館、そして毎日の目玉は閉園間際に開かれるキリストの磔刑・復活のスペクタクル演劇。血糊とか飛んでけっこうグロい(ひとり気分悪そうに連れだされてた)。クライマックスはそこからイエスと天使のダンスパフォーマンス。祈りで一日は締めくくられる。
それほど宗派にこだわっているわけではなく、信仰の立場をできるだけ後景化している印象で、聖書の世界を再現しまくっていた。つまり聖書世界の擬似経験。
「聖地経験」というその名の通りなのではないかと思った。主題はだてに中身をあらわしていない。
あからさまな政治的主張は見られないし、特定の信仰や思想への批判は一切ない。この点が創造博物館との最大の違いだ。消費者層はほとんど保守主義者なんだろうけど、たぶん信仰心は非常に強いけど、保守派の排他性についていけないような人たちが好んでいるんじゃないだろうか。
排他的な文化とは、そのスタイルが他者との境界線となることが多い。コンサートの曲が、歌詞や熱狂的なその観客の受容態度は創造博物館やエヴァンジェリカルのメガチャーチとほとんど同じなんだけど、伝統的なゴスペル(と謳っっていたがほぼR&B)のスタイルが選択されていたのはそういうことじゃないだろうか。客層にアフリカン・アメリカンが多いのもこの辺に関係あるような気がする(白人と「保守/リベ」比率がパラレルになる)。
もっとも大きなことのは「ナラティブ」がほとんどないこと。ひらすら真正さをウリにしながら聖書世界の再現/表象に徹している。
この理由は第一には、おそらく周到に信仰的立場を表にださないようにしていることに由来する。過激さを消してあまねくお客さんを獲得しようというわけだ。ウェブサイトのアナウンスもそういう意図だろう。[=内容]
その一方で、これはテーマパークという形式であることも強く影響していよう。聖地体験という「テーマ」を表象するのは、強いメッセージを立てることよりは、むしろそのテーマをあらゆる物に密かに滑りこませることがテーマパークの手法である。[=形式]
これらの二点から、創造博物館同様、保守的信仰に強く基づいた娯楽/教育施設であれ、「ミュージアム」と「テーマパーク」の違いがよりはっきりしてきた。
割に遅くなるが、迷った挙句とりあえず新しい街に行ってみたほうがそれだけでも意義があると思いCocoa Beachに向けて出発する。サーフィンとバケーションのビーチ。当日にウェブ上のシステムではホテルがとれずとりあえず現地に向かったが、なんと金曜の夜ということで安いホテルはどこも満席。コンドミニアムみたいにアパートが並んでいてものすごい部屋数だというのに、すごい。と思ったら結局Motel6にいけば、なんのことはない「けっこう空いてるよ」とのこと。あまりに安価なのはみんな避けてるな。ちょこっっといいクラスのホテルだけ埋まっているんだな。
深夜にとりあえず寝るだけのホテルに荷物を投げ込んで、明日のホテルとノートだけして眠る。