インディアンマスコット論争、パロディと対抗言説、年始の「祭り」

以前、アメリカの大学にはそれぞれマスコットがあって云々という話をした。
スカンクだったのをわざわざ止めてまで黄色ナメクジを選んだUC Santa Cruiseはばかだなあ、という笑い話ならまだいいけど、マスコット化されまくっているネイティヴ・アメリカンの表象が60年代以降からずいぶん批判を呼んできた(が、いまだになくなっていない)ことを最近知った。


ほとんどが頭に羽をつけてる例のアレ

マスコット化、すなわちステレオタイプ化には、まず画一化・一面化されることが問題としてあって、人間と動物を並べることとか極めて感情を逆撫でする要素だと思う(しかもナメクジとかオクラって)。さらにその背景には他者化の問題があるように思う。多数派が少数派を外部として構造化しようとするメンタリティがあって、この反発とは、「平民」としての地位を奪われたことに対する反発なのだ。

このことを知って、「ジョック」とかマスコットにしちゃう人たちいないかなーって思って検索してみたけど(笑)見つからなかった*1

そういう秀逸なパロディにによる対抗言説の方法があっても面白いのにな。スーザン・ソンタグが、アメリカ社会のある種の特質として"Camp"――うそ臭く過剰につまらない振舞いをすること――を論じて喝破したのは、ベタとネタとは表裏一体で社会における相対的位置が意味を決めるのだということだった。

彼女はバッド・テイスト("it's bad but good")の概念を持ち込んでハイアート/ローアートの境界を脱構築し、とりわけ"effeminate"――(男の)女々しさ――は誰にとって「女々」しいのかという問いかけ、アメリカのホモセクシャル・コミュニテイの扱いを問うた。彼らのような存在は、むしろcampyに常態化している/すべきものなのだと。とすればジョックもまた、社会によって作られているものだというのは間違いなかろうに。

そういえばつい二、三日前、「若者世代論」のパロディを「若者」が演ったのに対して「年配者」がそれをまたパロった、という話がネット上で盛り上がっていたのを思い出した。タイムリー。

「若者」は(その「年配者」曰く)「気鋭の社会学者」である古市憲寿さん。彼の『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社、2011年)における確信犯的にパロディックかました世代論に対して、「年配者」山口浩さんが同じく世代論で応じる。とってもパフォーマティヴな応酬。

山口浩「新春暴論 ――「幸福」な若者を見限ろう」『SYNODOS JOURNAL』2012年01月05日

古市さんのパフォーマンスに対して、ネタ的に仮想敵としての「年配者」がパフォーマンスに応じることで、世代論の非生産的な構造が浮かび上がり、両者は補完しあっていたように読めた。環境依存的に意味の受け取られかたが変化するのなら、ネタ的な古市論VSベタな「若者」世代論、というだけだと無駄な混乱を招くかもしれない(関連ツイート見た限りではネタもベタも一緒くたに評価されてた)。ネタ対ネタの構造を「演じる」ことで、構造およびコンテンツをより際立たせていると思う。
とはいえ山口さんは古市さんに「次作には両世代の対話に開かれた議論」を、とエールを送っているのだが、この点に関して、古市さんが言っていたのはむしろ対話のための議論を、ということだったのでは?という意見も聞かれた。実際には古市さんがそれほどパロディを強調していたわけではないのかもしれない。

ところで新春ってみんなヒマだから(といったら怒られそうだけど(笑)。少なくとも僕がせっせとエントリーしてるのはそう)、ウェブ上の論争とか祭りがおきやすいみたい。
レディ・ガガ紅白歌合戦の字幕テロップの英語の出来が酷くて、問題はジェンダー論なのか英語翻訳論なのか単なる企業構造論なのかって論争になってた。
紅白といえば、嵐の舞台装置をCGで作ったチームラボもウェブ上でジャニーズファンに叩かれていたっぽい。
年々視聴率が落ちていると言われ続けている気がするが、とはいえ紅白は未だに年間視聴率一位を弾き出している。みんなが自由な時間がある時期に一つのものを見ているような、そんな状況だから祭りが起こりやすくても不思議ではない。ツイッターでフォローしてくる人(それも一見関係なさそうな企業とか)が年末くらいから急に増え続けているのはこういう事情?

*1:そういえばwikipediaの「ジョック」の項目は、日本語版だけ、学園ヒエラルキー構造のすんごい詳細なピラミッド表が記されててなぜなんだろうと思っている。その図表の参考文献として、長谷川町蔵/山崎まどか『ハイスクールU.S.A.―アメリカ学園映画のすべて』とNewsweekの一記事が挙がっているけど、それだけじゃこの表を誰が作ったのかはわからん