山下敦弘・Q.B.B. 『中学生日記』

先の『ひかりのおと』のエントリーで考えたことはなんだろうとふと考えてみたんだけど、「観客がどういう立場で映画を観るのか。そのことを制作者はいかに設定(ないし操作)できるのか」ということだろうか。

エントリー書きながら実家にDVD持って帰ってきてるの思い出して、未見だった山下監督の『中学生日記』(2007)を観た。まさに、「観客の立場を操作する」手法が使われていた。

早稲田にある映画の専門学校ニューシネマワークショップの授業内で山下監督が受講生と一本撮影することになって、Q.B.B.久住昌之&卓也兄弟)によるマンガ『中学生日記』を原作にした映画を撮影。とはいえ、原作をエチュードにしながら段々ありそうな設定で即興的に撮影を進め、最終的にストーリー自体はその場ですべてオリジナルで作られたよう。役者も完全アテ書き(というか参加者からキャラを作っている)で、中学校での何気ない日常生活の断片を描いている。

当然といえば当然なのだけど、役者さんたちは全員りっぱな大人である。男性の髭面や浅黒さ、女性の艶かしい感じや、身体や所作が"出来上がっちゃって"いる感じ。制服も全然似合ってない人も多い。(けど一方で、制服に関しては意外に違和感がない人もいるのは面白い)

「気まずい間」の美学と称されるように、山下の画面に現れる具体的で生々しいリアリティは、「歪み」に徹底的にフォーカスすることで生みだされる。それによって苦笑・可笑しみを生む。(…)山下は、俯瞰した観察眼に敢えて留まることで、没入を回避する。そのことがリアリティを生む。

と先に書いたけど、中学生の愛すべきおバカなエピソードを取り上げるなかで(優等生風な子が加減がわからずいきなりキレちゃって気まずい雰囲気になるとか、ガキ大将がビビりながらも煽られてケンカしに行かされるときに掛け声あげて「気合」いれるときに意味なく好きな子の前でやっちゃうとか(笑))、それを大人が演じていることで却ってその「歪み」がフォーカスされる。ありありの違和感が、没入を避けて「観察者」という立場に観客を追い込み、あるあるなノスタルジアに引き寄せられる気持ちと達観の狭間でゆられながら楽しむような、そんな作品。チェルフィッチュの『クーラー』から『三月の5日間』、『フリータイム』などの一連の作品における、日常の所作や「超口語体」(岡田利規の言葉)を対象化する(観客に対象化させる)手法と類似する。

ちなみに、例のNHKのアレとはまったく関係ない。けど、アレってある意味、「ノスタルジア」と「あれ?ひょっとして今の自分もこんな感じ?!」っての狭間で大人たちに愛好されていたのでは?と思うと意外に近いものなのかも。

ちなみ2、特典映像では久住昌之さんのおバカな中学生への並々ならぬ愛が感じられて、愛おしさが感染します。

中学生日記 [DVD]

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