郊外論と当事者性:サイタマノラッパー、サウダーヂ、ひかりのおと

作品評ではないのだけれど、「ひかりのおと」を観たあと考えたけど書ききれなかったことを備忘録的にまとまりなく。

●「地方郊外」発の物語と当事者性
こうした流れは、ジャーナリストや学者たち「中心」の立場から地方を「周縁」化する言説に対して、当事者の立場(およびそれを名乗る立場)からの「対抗言説」としても理解できるように思う。(無論、既に30年以上こうした議論では飽きるほど言われてきたことでもあるし、過剰な読み込みという謗りは免れないだろうけど。)

「ひかりのおと」同様にこうした映画は近年とりわけ目立っている。例えば、思春期を過ごした埼玉県深谷市を舞台に入江悠が監督した、郊外のダメ・ニート・ラッパー映画『サイタマノラッパー1・2・3』(2009・2010・2012年)。山梨県甲府市出身の富田克也監督が参加する制作チーム「空族(くぞく)」による、郊外のリアルな風景と「ヤンキー」生活の閉塞感を捉えた『国道20号線』(2007年)、そしてゴーストタウン化したシャッター街で労働問題と経済格差に喘ぐ土方ラッパーと移民たちを描く『サウダーヂ SAUDADE』(2011年)。入江、富田両監督はいずれも自身が暮らしてきた地方郊外の現実を、若年世代の苦悩を軸にして描いてきた。

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こうした当事者性が生きてくるのは、外側からのまなざしで「地方」を捉えたときには描けない、あるいは描こうともしないような部分に、内側のまなざしによって肉薄するときだ。「地方郊外」映画といえば『下妻物語』(2004年)が思いつく。中島哲也監督・嶽本野ばら原作、ロリータとヤンキー女子たちの友情を描くコメディだ。まさにロードサイドな茨城県下妻市とは、ロリータ趣味のグループの生活空間としてリアリティある舞台として選ばれたに過ぎず、その土地固有であること(ヴァナキュラリティ)、郊外であることはそれほどフォーカスされているわけではない。映画版において中島が郊外の生活と都心の晴れ舞台というギャップのおかしさを明白に狙っていたように(ジャスコなどは極めて特徴的な「郊外」のアイコンである)、都心という「中央」に対峙するかたちで田舎・郊外という「周縁」が外側から固定化されている。地方を雑駁な印象からステレオタイプ化して笑いの一要素とする手つきには、周縁化のまなざしが見え隠れする。(ちょっと大人計画にも同じような印象を受ける)

『ひかりのおと』のプロデューサー桑原さん(キャプテン)たちによれば、制作経費僅か1000万円の『サウダーヂ』はミニシアター系で異例の興行収入を叩き出しているというのだけど、俳優にスター性がない映画がこれほどに売れるということは、外部から観察した単にわかりやすいクリシェ的な物語ではなく、内部に入り込んで現地の人々に肉薄した物語を求めるムードが広がっているということなのだろうか―――それは「ドキュメンタリーなるもの」への希求と呼べるのかもしれない。そして、昨年3月11日の震災後の日本社会の変化と無関係ではないと思う。

●郊外論における当事者映画の位置
郊外論との関連で捉えると、都築響一氏が先鞭をつけた「ロードサイド・カルチャー」が、その後、VOWや珍スポットなどのブームという形で「サブカル」として文脈化する一方で*1三浦展の「ファスト風土」やオギュスタン・ベルクの「総郊外化」論などを契機として、2000年代以降の論壇においても郊外論は一種の流行となった*2。評論では郊外の社会状況や郊外発のカルチャーの是非(それらがよいのかわるいのか)が問われてきたように思うが、現場の声や当事者たちの語りに肉薄したものはあまり見なかった印象がある*3。当事者からの対抗言説的な映画群は、それらの不足を補完するような役割を果している。

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●上映と配給、映画監督はいかなる主体であるべきか
また、『ひかりのおと』が採ったキャラバン上映という方法も、映画の配給について考えるきっかけとなった。『ひかりのおと』は、ロードショーの前に、地元岡山限定で自主上映(上映館の商売を抜きにする、という意味で)に近い形でツアーを組んでいる。これは、制作費と興行収入の関係からすれば実質的な経営上ロードショーと変わりなく、スポンサーなどを通じて制作をする方法の宣伝方法の一種だとは思うけど、監督やプロデューサーが直接上映館をツアーするため、彼らは生活時間の多くを上映に割くこととなり、「自費で観客たちとコミュニケーションしている」状態になる。ここで地産地生のようにスター性のない俳優を使っていることで、スポンサーがつきにくい、上映館を探しにくいという状況にあるのは明らかで、「客寄せ」をどの点でやっていくのかという問題が生まれる。とにかくある土地の観客=上映権を獲得するために、例えば「虎さん」がロケハンによって観客=スポンサーを獲得するやりかたをとっているとすれば(=「フィルムツーリズム」)、その俳優版のようなやり方(つまり、知り合いが出てるから観よう)も可能なのだろうか。(事実、『20世紀少年』などの規模になれば「エキストラ・プロモーション」とでもいうようなことは想定されているらしい)そうなると、地域消費のための資金繰りをするスポンサー・システムがあればいいような気がしてくる。

お金をどこから調達するかという問題の一方で、配給自体の方法を変えるという戦略もあるだろう。youtubeなどの無料アップロードとは異なる形で、観客からの課金システムを行なう「映画館」システムがあればいいと思う。イメージとしては、アップロードと課金、ウェブコミュニティ参加者主体の宣伝(口コミ)システムのようなものだけを、その「映画館」サイト管理者が運営するようなかたちだろうか。iTunesのストリーミング配信による「レンタルビデオ」(=課金後、一定期間中観られる)に作品を登録することは、DVDなどパッケージ化されていなくても可能なのだろうか。金額や基準が気になるところである。

そういえば、『罵詈雑言』の渡辺文樹監督がいた。彼は全国の公民館ホールなど予算があまりかからないところを会場に、宣伝もビラまきを親子四人(子供たちは小学生のようだったから、夫婦二人のようなものだ)で全て行なう、まるで「サーカスがやってくる」のようなキャラバン上映を10数年来繰り返している。(映画内容の評価をするのが本稿の趣旨ではないのでその点はさておき)彼のように、経営戦略などは無関係に「見せたい」という気持ちで上映を実現するためのインフラは整ってきていると思うのだけれど。

山崎監督は、作品は「農民歌のようなものであればいい」と話していた。クリエイターかアーティストか、ドサ回りの劇団か。はたまたニコ動うp主かホームビデオ・カメラマンか。映画監督とはどのような主体でありうるのだろうか。

*1:都築響一氏の「珍日本紀行」は1993年2月から5年間『SPA!』上で連載された。2000年代以降になって、「B級スポット」や「珍スポット」などの呼称で多くの類似出版物が刊行され、テレビ番組などマスメディアでも同じような企画が流行した。さらに、VOWなど投稿雑誌のような読者参加型の性格――考現学的なものとも呼べる――は、ブログや個人ウェブサイト、SNSなどに極めてフィットし、これらインターネット・メディアによって流行が後押しされてきた感がある。

*2:これらの二つの著作がとりわけこのブームの火付け役となったように思うが――三浦は2000年から『psiko』で連載を開始――、90年代初頭には宮台真司が犯罪と郊外の関係についての言及していたように思う。また、三浦も参照したアメリカの社会学者George Ritzer[ジョージ・リッツァ]はThe McDonaldization of Society[『マクドナルド化する社会』早稲田大学出版局]で、アメリカ社会を事例としつつ、世界規模で文化の生産構造の合理化とマクドナルド的経営ノウハウの席巻について、既に1993年には論じていた。また、フランスの人類学者Marc Auge[マルク・オジェ]は1992年にNon-Lieux, Introduction � une anthropologie de la surmodernit�[『非=場所』邦訳未刊行。同著者の『同時代世界の人類学』で同様の議論が読める]において、世界中に偏在するようになった空港やショッピングモールなどの空間とは、場所の固有性[ヴァナキュラリティ]をなくした「非=場所」であると論じた。このように、郊外に見られる空間の場所性と文化の関係についての関心は、それらが現象面で進行する地域ならば世界中どこでも見られるように思うが、日本では――それが文化画一化への対抗運動などではなく――珍スポットやゆるキャラなどのように娯楽として流行した感があるのは、極めて日本的な現れではないだろうか。なお、リッツァは2004年のThe Globalization of Nothing[『無のグローバル化明石書店]においてこうした議論をさらに拡大させ、むしろオジェの非=場所に近いような議論を進めている。本エントリーとの関連で言えば、ミュージアム研究者の光岡寿郎が非=場所としてシネマコンプレックスおよびミュージアムの空間性を分析していたことが思い出される

*3:論壇でも消費文化への態度が愛憎表裏一体なあたりが、日本文化の研究として極めて重要だと思う。その是非とは別にして。ベルクや三浦の議論は郊外化の危険性や文化的価値の喪失などネガティヴな側面を訴え、やや扇情的な議論で話題を呼んだように思うが、それに対して宮崎哲弥などがテレビ番組など各所で「実際にはもっと温かい印象だ」という主旨の発言をしていたり、速水健朗郊外化する風景を『ショッピングモーライゼーション』と呼んだり、郊外環境発のケータイ小説について分析する態度は必ずしも否定的なニュアンスではなかった。また、都築響一金益見がそれらを紹介する語り口には、とても温かい対象への「愛」が感じられる。