【ネタバレ注意】原一男『れいわ一揆』5つの「おもしろい」:世界中で崩壊する民主主義に蔓延るグロテスクの縮図

※以下、本編に関するネタバレがあります。事前に内容を知りたくないという方はご遠慮ください。

 

『れいわ一揆』2019.11.2@東京国際映画祭

監督:原一男 製作:島野千尋 

撮影:原一男 島野千尋 岸建太朗 堀井威久麿 長岡野亜 毛塚 傑 中井献人 田中健太 古谷里美 津留崎麻子 宋倫 武田倫和 江里口暁子 金村詩恩

編集:デモ田中 小池美稀 製作・配給:風狂映画舎

2019年/248分/DCP/16:9/日本/ドキュメンタリー

©風狂映画舎

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docudocu.jp

 

「おもしろい映画を作りたい、という一念で取り組みました。」

 

原一男監督が今回の世界初プレミアの前にツイートしていたこの言葉。オールナイト上映を観て、その前後の原監督、安冨歩氏やれいわ新撰組のメンバーたちのトークショーを聞きました。(2019年11月3日)

 

以下ではこの「おもしろい」という監督の言葉を受けて、それに沿って感想を書いてみます。5つの点からいかに「おもしろい」映画だったのかを論じていこうと思います。

 

①れいわ新撰組・れいわ現象の「裏側」をのぞく

本作はまずはもちろん「れいわ新撰組」の映画だった。れいわがどのように立ち上がり、何をしてきたのか。2019年の春、突如沸き立あがり短期間に巨大な胎動を成した「れいわ現象」の現場では、どのようなことが起こっていたのか。多くの人たちが気になっているこれらの疑問に一定程度答えるものとなっている。そこでは、これまでマスコミや多くのスモールメディアも捉えきれなかった、いわゆる「裏側」を描いたという側面もあり、れいわについて理解がより深まったという満足感が得られる。これがひとつ目の「おもしろい」。

 

安冨歩の思想と活動を知る

そしてもちろん安冨歩氏の映画でもある。なぜ馬に乗りマイケル・ジャクソンを語り、「子供たちのための未来」を選挙活動の柱としたのか。一見すると奇異な活動で安冨氏は何を目指しているのか。2019年参議院選挙中やそれまでの活動の断片からだけでは(少なくとも私には)十分な理解が困難であった、安冨氏の思想や政治へのスタンス、社会運動の方法が、素直にスッと理解できた。また、端的かつ明晰な安冨氏の「言葉」でそのことが伝えられる。上映前のトークで、原監督と安冨氏がやや曖昧な用語で指摘していた、「言葉の映画」というのはこの意味だろうか。れいわや安冨氏について、不勉強に、しかし興味を持って追いかけていた私のような観客がこの映画を観たとき、モヤモヤしていた安冨氏への理解が、極めて濃厚な密度と情報量で深まっていく。これが二つ目の「おもしろい」。

 

現代社会の問題の写し鏡としてれいわ現象をみる

また別の水準では、現代社会の問題の写し鏡となる映画である。トランプ現象などの例を挙げるまでもなく、民主主義の崩壊が進み世界は大きな曲がり角を迎えている。ここに現れた軋みを大写しにするリトマス試験紙のような役割を、弱者や世の中で声をあげる力のない人々が担っているはずだと思う。安冨氏も同じ趣旨のことを選挙演説で繰り返し述べていた。

れいわ新撰組の各人が持つ、マイノリティ・弱者としての特性はそれぞれ異なっている。重度障害を持つ船後靖彦・木村英子両氏はもとより、拉致被害者家族であり原発労働者という蓮池透氏、コンビニ店長として事業主ながら大企業に苦役を強いられた三井義文氏、本土・国政が沖縄を切り捨てていることを軸に創価学会員でありながら公明党への批判を唱える野原義正氏など。これらのマイノリティ性・弱者性の語りに加えて、党首の山本太郎が戦略的に焦点を当てるのは、経済格差への批判と消費税撤廃という「弱者目線の政治経済」の論点である。これらに共感が生まれたのが、れいわ「現象」である。

一方の安冨氏は、これらの多元的で局所的なバラバラの課題を大きな文明論へと編み上げる役割を果たす。映画は安冨氏の活動にフォーカスしながられいわ現象全体を見通すことで、より俯瞰的な視座かられいわ現象を日本社会の問題として捉えて、普遍化することに成功している。この抽象化によって現代社会が抱える課題群としての理解が深まり、トランプの台頭やブレグジットなどの現象などへと、次々とヨコの連想が生まれる。こうした社会の課題が見えて「おもしろい」ことが三つ目。

 

④「異物」から世界をあぶりだす原一男ドキュメンタリーとして

そして、ドキュメンタリーとしても「おもしろい」。原一男ドキュメンタリーとしてフィルモグラフィを振り返れば、過去作と多くの共通点が感じられる。つまり、大きな社会背景や歴史的悲惨を「書割り」として置いた上で、しかしそれは意識的か無意識的かわからないような微妙な距離感で保ちつつ、主人公として、ひとりまたは少数の「異物」にフォーカスする。そして、観客の心に突き刺さる衝撃を次々と与えることで没入を促し、すると次第に「書割り」が立体的に迫り出してきて、映画はドラマ性を帯びてくる。このドキュメンタリーとして「おもしろさ」にグイグイ引きこまれた。鑑賞直後にツイートで「エンタメ」と評したのは、この点だった。

しかしここには、同時に困難も感じた。おそらく選挙を時系列で語るという話法に由来しているように思うけど、これによって安冨さんの異物感を「小出し」にしている印象を受ける。また、約四時間という長尺の後半の方へと盛り上がりや没入のポイントが集中することになり(また前半がれいわ新撰組全体像を割と丁寧に描くことに徹していることにも関係しているかもしれない)、「おもしろさ」がやや薄まっているように感じる。

 

⑤映像から物語をひび割れさせ観客が能動的に「一揆」を起こすドキュメンタリー

もうひとつのドキュメンタリーとしての「おもしろい」は、こうだ。画面に写りこんだもの全てから様々なものが伝わってくる、それは映画の柱にあるテーマや物語とは必ずしも整合しない、それゆえに可能性に満ちていて豊かであるーーーつまり、ドキュメンタリー映画特有の強度がある(映像固有の強度と言っても良い)。

アジ演説や感動のエピソードは美しい画面で届けられ(トークでも監督は画面が「映画的」で「美しい」ことにこだわったと強調していた)、涙する感動に一気に身体全体を持っていかれるような瞬間がある。しかし同時に、「あれ?この人の台詞は芝居がかってるよな」と透かして見せてしまうような場面もあって虚を突かれる。

つまり、全体としては、れいわの熱狂を観察し、安冨氏の言葉に次第に心を奪われながら、観客の思考は次第に巨視的なところへと昇華されていく。だがその一方で、見ている対象それ自体が作り物であると気がつかされる。安冨のアジテーションだけにとどまらず、山本太郎やれいわが作り上げつつある選挙や政治の様式にある「芝居感」に気がつくことで、ああ、そうか、とハッとさせられることになる。

現代の日本社会で決まりきった「型」となった選挙活動や党派政治とは、決して「特殊な」グロテスクさではないのだ(そう、想田和弘監督が『選挙』で描いたようなあれである)。世界中で崩壊し続ける民主主義をギリギリのところでかろうじて支える、近代社会に蔓延っているグロテスクさである。その「グロテスク」の型に乗っかることでしか規範をひっくり返すことはできない。すなわち、外側からは「革命=一揆」は起こらないのだ。