「ドキュメンタリーなるもの」の力:山崎樹一郎監督『ひかりのおと』

山崎樹一郎監督による長編デビュー作『ひかりのおと』(2011)を観た。

トマト農家を営むかたわら5年以上温め続けた映画の構想は、監督自身が住む岡山県真庭市を舞台にした酪農家のホームドラマとして結実した。過疎地域で酪農を営む一家を描きながら、若年世代の自意識と跡継ぎ問題、グローバル経済におけるローカルな生産と消費などの問題が対象化されている。スタッフからロケハンなど、「地元」にこだわった「地産地生」の映画であるという。

山崎監督は学生時代に京都で映画制作を学んだ後、父の実家の農家を継ぐことを決め、その土地で、そこでの生活のなかで何が出来るのかを考えたとき、このような形で監督業を続けていくことにしたという。いわゆる「半農半◯」にてらして言えば、「半農半監督」だ。なるほど話を聞けば、学生時代、映像人類学の第一人者大森康宏に民族誌映画(映像による文化人類学的記録の方法)を学んだというから、こうした参与観察的なポジショナリティも納得である。民族誌映画といえばと言って、ときおり小川紳介に例えて語られるらしく、監督自身は違和感があるんだよなあとつぶやいていた。その意図を聞きそびれたけれど、小川プロダクションは客観性を立場としつつもある一つの「答え」を提示している、あるいは求めているように見える一方で、本作はむしろ問題の所在を当事者として「ありのまま」に提示している。この違いのことだろうか。

それは悲劇的なホームドラマとして提示されている。つまりフィクションである。当事者の視点に立ち、社会への鋭いまなざしを持って、ありのままを描くためにドキュメンタリーではなくドラマという手法を採った。むしろ劇映画の利点がドキュメンタリー性を際立たせているのである。

ドラマを用いることの利点として、入り組んだ様々な社会問題がクリアな視点で見通せる。そしてまとまったパッケージとして提示できる。上述したような問題は現代の日本において極めて一般的ではあるが、別個に存在していてもよさそうな問題を、ひとつの家庭を舞台にしてわかりやすい物語に編んでいる。メロドラマ並にやや過剰気味に押し込まれていると感じるほどだ。詰め込まれているけど単純化された物語は、フィクションとして抽象度が高まることで、誰にでも共感をよぶようなより普遍的な問題であるかのように提示される。要するに「あるある」である。フィクションによって、「真庭のある酪農家の家庭」という特定の問題が、もっと一般的な家族や過疎地域、農業、食料経済という普遍的な問題に開かれる。

さらに、フィクションの手法によってドキュメンタリーでは描きにくい事情に切り込んでいる。僕自身、仕事であるフィールドワークでも同様の問題を感じるのだけど、内部から社会問題を告発するようなこうした試みは、無論、倫理的な問題につき当たる。見聞きしたもの、教えていただいたことを、どこまで、どうやって描くのか?この語り口は誰の利益を生むのだろうか?誰に向けて、どこで発表するのか?「あの人」にこういう作品を作りましたと胸を張って言えるのか?こうした問題を考えざるを得ない。匿名性と虚構性のフィクションによってその自由度が高まり、徹底した当事者性によって培われたリアリティが表現されている。

こうした物語化は、単なる「よくある悲劇」として観客のカタルシスの種となってしまうことが多い。しかし本作ではこうした矮小化への歯止めとなっているものがある。まずは監督の当事者性である。「真庭の一農家」「都会で『やりたいこと』を探し続けたIターンの若者」という立場に立っている(ように見える。少なくともオフィシャルには)監督による作品だという事実が、観客にカタルシス的な消費をどうしても躊躇させる。

しかしこれは、監督が当事者だという事実を知っているからというだけではない。映画が監督自身の生活のドキュメントとなっているからである。このことが相乗効果となる。ロケハンはもちろん、役者たちの出自や言語(岡山弁)、小道具なども「地元」にこだわって作られているが、これは同時に、彼自身の生活に密着したものでもあるのだ。

それはもちろん芝居なのだから、画面からはフィクションを構成する要素がたくさん見て取れる。事実全てを「地元」で賄うなんてことは、「世界の繋がり」(パンフレットの言葉)がある以上理論的にも不可能だし、実際にもそうなっていない。というか、何をもってして「地産」と言えるのか、という問いは不問に付されている。しかし、敢えて設定したこの線引きを用いることで、客観と主観の境界を曖昧にしておくことが矮小化の歯止めとなっている。同じ画面が多面的に捉えられるし、その意味が宙ぶらりんなのだ。そして結果的に、この歪みが映画のリアリティを生んでいる。

さらに脚本においても、現実の観察を出きる限り客観的に再構成しようとする側面と、自身の半生と照らしつつ「思い込み」で遠慮なく解釈しようとする側面の配合が、非常にわかりにくい。つまり「私小説」的な脚本が、画面と同様の効果を生んでいる。これらの曖昧さは、本作のもっとも特異でもっとも面白いところだと思う。この意味で、(現実の日常生活(=ケ)を元にして、毎年一回の祭りの際に(=ハレ)自作自演する)農村歌舞伎と同じような、「日常の神話化、あるいはドキュメンタリーなるもの」であるように思う。

「ドキュメンタリーなるもの」としてドラマを撮っている映画監督といえば、是枝裕和山下敦弘が思いつく。是枝監督は(例えば「ネグレクト」の問題を『誰も知らない』(2004)で取り上げたように)もっと綺麗に、高品質なドラマとして成立させる。子供たちを「単に遊ばせるだけ」という演出方法がよく知られるように、画面構成の方法としては歪みを取り入れているものの、あれほどまでに商業映画としての成功を収めることが可能であったように、完成度が高く整い過ぎている。つまり、没入できてしまうのである。

山下監督が『松ヶ根乱射事件』(2007)で現代の過疎地域、ムラ社会のどうしようもない閉塞感を苦笑しかできないコメディとして描くとき、あるいは『不詳の人』(2004)において、“ハリウッド仕込み”の俳優養成セミナーでセクハラと詐欺まがいの行為を咎められた(山本剛史演じる)船木テツヲが繰り返す、どうしようもない言い訳をフェイク・ドキュメンタリーとして切り出すとき、ミクロな視点で痛々しい現実がえぐり出される。「気まずい間」の美学と称されるように、山下の画面に現れる具体的で生々しいリアリティは、「歪み」に徹底的にフォーカスすることで生みだされる。(それによって苦笑・可笑しみを生む)これは、フィクションならではのものである。山下は、俯瞰した観察眼に敢えて留まることで、没入を回避する。そのことがリアリティを生む。

山崎監督が対象を提示するやりかたは、このような「ドキュメンタリーなるもの」として比較して考えてみたとき、なるほどこういう方法もあったのかと思わせるものだった。

「地産地生」を謳う本作の上映は、まず岡山県内44ヶ所を巡り、その後、関西や関東へも巡回する。ちょうど年末年始の帰省のタイミングに北西部の真庭市勝山のアートスペース岡野屋旅館で観た。祖母の住む勝田郡奈義町では来週、JAのホールで上映されるらしい。きっと顔見知りの農家の人とかいるだろうし、そっちでも観てみたかったなあ。東京国際映画祭ロッテルダム国際映画祭でもスクリーニングされてきたらしいけど、映画とは観客や空間でずいぶん印象が変わるものだなあと改めて考えさせられたりもした。