【連載】『ユダ&ブラック・メシア』とH.E.R.〈Fight For You〉――映画を深める二つのミュージックビデオを読む

『ユダ&ブラック・メシア』とH.E.R.〈Fight For You〉――映画を深める二つのミュージックビデオを読む

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少し前になりますが、wezzyでの連載が公開されています。今回はブラックパンサー党を描いた映画『ユダ&ブラック・メシア』について。ミュージックビデオという角度から取り上げています。神童ディーヴァH.E.R.による主題歌〈Fight For You〉のドラマ仕立てのMVが秀逸です。

記事はレンタル開始時期に合わせて書きましたが、DVDの方は本日発売のようです。配信は年明けのよう。

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建築は「調理済み」の展覧会素材? 「隈研吾展 新しい公共性をつくるためのネコの5原則」@東京国立近代美術館

kumakengo2020.jp

キュレーションが立っている。コンセプトすなわち言語による切り取りが明晰に入ってくる。「建築」という営みそのものが、コンセプトを立てるスタイルをとることに由来していると感じる。すでに「調理済み」で、その点では佐藤可士和展の際に「デザイン」を展示することに感じたことと似ている。


切り込むよりもバランスと目配りの展覧会。全体を貫く「ネコ」がもつキャッチーさと公共性へと導かれる奥行き。(二部構成の後半無料パートには、ネコについての、ネコのよるリサーチがなされているが、コロナ禍に気がついたと説明されていて時々性も与えられている。)各章を構成する五つの概念の端的かつ際立つテーマ性。展示のコンパクトさとも合間って、観るに優しい展覧会という印象。


アーティストとのコミッションワークやこれまでの仕事のコラボレーターへのインタビューによって「外部からの視点」を取り込む仕方もぬかりなく、バランスに長けている。瀧本幹也梼原町の隈建築を撮影したモノトーンの映像は三面の屏風状のスクリーンに投影され、画面それ自体がモノ的で極めて建築的な物体性を帯びる。藤井光が長岡シティホールアオーレを映したドキュメンタリーは、施設を基点に人々の交差を撮らせれば右に出る者がいない巨匠フレデリック・ワイズマンを思いださせる。


最終週にはオンライン予約をとりやめ整理券を配布していたほどの盛況なことにも驚いた。土曜日、開館30分前に訪れて30分待ちで昼下がりのスロットが予約できた。

論文「コロナ禍で変容する「展示の現場」 ――第四のミュージアムのデジタル化」が『博物館研究』に掲載されました

論文「コロナ禍で変容する「展示の現場」 ――第四のミュージアムのデジタル化」が『博物館研究』に掲載されました。

 

コロナ禍におけるミュージアムの変容について、デジタル化に焦点を当てて論じたもので、2017年に発表した論文に続くデジタル・ミュージアム論です。掲載誌は昭和初期から続く公益財団法人日本博物館協会から刊行されているものです。主に学芸員などミュージアムの現場で活躍されている方々に読んでいただけるのではないかと期待しております。

 

両論文は以下から読めます:

「コロナ禍で変容する「展示の現場」ーー第四のミュージアムのデジタル化『博物館研究』vol.56 no.9 (no.640)、2021年9月、19-23。

「デジタル・ミュージアム・研究――デジタル時代のミュージアムとモノと場所」『立教アメリカン・スタディーズ』立教大学アメリカ研究所、40号、2018年3月、57-89。

 

【連載】お化けと差別に背筋が凍るーードラマ『ゼム』が描く住まい・契約・トラウマの人種主義

今月の連載は、ドラマ『ゼム(Them)』を取り上げました。

 

「お化けと差別に背筋が凍る ドラマ『ゼム』が描く住まい・契約・トラウマの人種主義」

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wezzy|ウェジー

 

1950年代のアメリカらしい郊外を舞台にしたホラーものなのですが、アフリカ系一家が白人居住区に引っ越してきた事で起こる悲劇という2020年代らしい設定となっています。評論では、「人種差別」を「現代の妖怪」として描いているのではないかと読み解いています。

 

アマゾンプライムで配信中で短めのシリーズです。併せてどうぞ。

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ギフトショップと展示が一体化した初の国立美術展では?「美術でない展」としてはナイストライ:佐藤可士和展@国立新美術館

所属している文化資源学会で加島卓さんが講演される。この機会に佐藤可士和展を訪れたときに書いた文章を振り返り、改稿版を公開する。

 

デザイナーの巨匠、佐藤可士和の個展。セブンイレブンから楽天まで、2000年代以降の日本社会の景色を彩った人物。また、ユニクロをはじめとして「日本/ニッポン」を代表するデザイナーとして国外から認知されていよう(少なくとも作品のイメージのレベルでは)。会場である国立新美術館は、三十年ぶりの新たな「国立美術館」として2006年に開館したが、そのロゴも佐藤の手によるもので同館とも縁がある。

(なお、GWまでの予定だったが、緊急事態宣言のゴタゴタで予定より数週間早く4/24に終わってしまった。)

www.youtube.com

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美術館は「美術」だけのものではない。デザイン、ファッション、音楽、映画……と多彩なジャンルの芸術が展示されるようになって久しい。「日本/現代/デザイナー」とそれぞれを代表するに相応しい佐藤の個展は、作家性を全面に押し出したタイプの「美術でない展覧会」であった。

美術館とは研究機関でもある。佐藤は、レトロスペクティヴ展によって「アーティスト=作家」としての仕事を検証する研究対象としては申し分ないだろう。

しかし、その成果を公開する展覧会の見せ方は物足りないものだった。クロノロジーを基本として、制作テーマと発注企業(クライアント)のジャンルの組み合わせから、緩やかにセクション分けされた展示構成は、主に佐藤が過去に発表してきたコンセプトをなぞるものだ。キャプション及び音声ガイドでは、佐藤本人の「声」で作品の意味が語られる。そこで語られるのは制作エピソードや当時の自分の心象などで、作品を振り返って考察するような言説はあまり語られず、ましてやその舞台となった社会制度や背景について批評的な視座は向けられない。展覧会自体が、巨大な企業広告の総体であるような印象を受ける。

バンクシーが自作に冠して揶揄した「お帰りはお土産屋を通ってから(“Exit Through The Giftshop”)」のフレーズよろしく、展覧会オリジナルのユニクロTシャツの「展示」が、この展覧会を締めくくる最後の展示室である。この部屋の「キャプション」はイコール「値札」である。整然と並んだ「インスタレーション」の中から、躊躇しつつ「パッケージ」を手にした。「触れないでください(Don’t Touch)」という展覧会の禁止事項を、ハンズオンで展示物を開いていくユニバーサルミュージアムとは別の形で、概念崩壊させている。日本史上、国立美術館で初めて、商品を売る場所・行為が展覧会のメインコンテンツと限りなく近づいた例ではないか。(明治期の陳列館などは除く)

(なお、筆者はウォーホルUTを購入したことをここに白状したい。)

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一般にいって「美術でない」ものを扱う展覧会は、「中心と周縁」という文化芸術の序列構造に対する批評性が低い場合には、単に美術館が芸術としてのお墨付きを与えるという結果になるケースが多い。展覧会が扱う、「でない」ジャンルの特性を批評する視座があると意義深いものになる。この展覧会の批評性の薄さは、端的に言って佐藤がインサイダーであるからであり、企業の声を代理で彩る立役者であるところの広告業において、現役で(大)活躍する作家を扱う際の限界が見える。

カタログの編集における人選を見るに、担当学芸員の企画力は非常に高いと感じる。限られた紙面に論者を二人だけ選ぶ際に、デザインを社会学的に研究する加島卓氏、そして「美術でないもの」を「美術」として“アイコニックにデザイン“した村上隆氏を取り上げている。

 

追記1:

産業としての「デザイン」というのは、未だ十分な効率化や良いサービスが行き届いてないところを、視覚や聴覚など芸術・技術的な方法によって更新するというものであろう。そして各デザイナーによって強調点が異なるのだと思うが、佐藤可士和氏は自身の方法論を「クリエイティビティあふれる整理術としてのデザイン」や「ICONIC BRANDING(=企業や製品のエッセンスを一目で感じられるもの)*1」と説明している。

この意味で、この展覧会が「美術展」をうまく彼流に「デザイン」したものかといえば、それほど成功していない。「一目で『佐藤可士和』を整理したもの」にはなっていないし、展覧会メディアの可能性を更新したとも思えない。今後この方法を別の対象に応用したからといって、斬新な展覧会が企画されるようなものではないだろう。

展覧会内では、日清製粉の「安藤百福記念館、カップラーメンミュージアム」を佐藤がディレクションした仕事が紹介されていたが、これまでにも「展示」をデザインした経験が十分にある。今回は、それ同様に国立新美術館が外部のデザイナーとしての佐藤に発注をして、美術展概念を更新させるという仕事をしてもらうという役割をはっきりして演じるというのが、最も適切な落とし所だったのではないか。自作の「全集」を編むにはどうしても主観が邪魔してしまう。一度「習作」として、他の展覧会のデザインを佐藤にコミッションするという機会が先にあってもよかったのかもしれない。

 

追記2:

加島卓「佐藤可士和論」読了。憑依するかのごとく彼自身の言葉を引用しながら、足跡をたどりながら佐藤の仕事へと肉薄する。今回のキュレーションにはこの論考のような作り方もあったのではないか。丁寧に「文脈を復元」しながら見せていくやり方。言い換えれば、歴史博物館的な(ないし王道の美術史的)展示とする構成のしかたもあったのではないかと思う。

佐藤自身、今回の展覧会は「自己紹介的な展示」にしようと思うあまり、クライアントにいつも釘を刺している「幕の内弁当」と同様なものになったと反省をしている(村上との対談 p.305)。これはおそらく、「展覧会」概念の「常識を覆して」「アイコニックに見せる」という佐藤が思い描く「理想(あるいは定式)」と、デザイナーの主たる舞台ではない美術館に飛び込んで初の個展を開くという「現実」の間で、うまくバランスを取ることができなかったためではないだろうか。もし佐藤がいつもの革新性を諦めて、その対極である、文脈とともに仕事を解体して見せるという堅実な方向へと向かう勇気があれば、展覧会はもっと面白くなっただろう。加島論文からは、こうした展覧会ナラティヴのモデルも想像することができた。

旧友である村上隆と、展覧会やミュージアムについて語っている箇所も興味深い。キュレーターがいないと展示に要素を詰め込みすぎてしまうのだと言いつつ村上は、同種の課題を佐藤の展覧会に指摘しつつ、今後も続けていくことで気負いを無くし、「海外にいる未来のビッグクライアントのプレゼンテーション」として欲しいと期待を口にしている。「カップヌードルミュージアムのエントランス部分のような、可士和さんの魅力であるスケール感」「外国人が「What the hell!」と口にしてしまうような展示」を見たいと佐藤に伝えている。「日本のアンバサダー」として、「海外から訪れる人たちに対して日本の奥深さをプレゼンテーションする場になるべき」である美術館でそれらを伝えることができると言うことを、強い期待を持って説明しているあたりからは、ステレオタイプを戦略的に操作しながらも、国民国家的な「日本」という因習的な枠組みには(敢えて)疑いの目が向かないような制作をしてきた村上の態度が、悪い意味でも伝わりそうで懸念を感じる(つまり、社会デザインという現代アートなんかよりよっぽど日本国内で影響力を持つ方法で、ニホンスゴイ的なものを力強く助長する)。独立した佐藤の社名はSAMURAIであることも思い出される。

UNIQLO PARKやふじようちえんとカップヌードルミュージアムを同じ人物が企画しているというのは、とても興味深い。近年のミュージアムの理念であり実装され始めているのは、社会における「公共性の母体」の役割を果たすことである。すなわち、広場や公園が持つべき共同体の基盤としての機能であり、初等教育機関に期待されるユニヴァーサルな創造性を各人から引き出す機能だ。佐藤の仕事がミュージアムという場を結節点としてこれらを線で結ぶことがあれば、この理想が実現することもあり得るかもしれない。美術館自体をデザインすることについて、「とても興味があ」り、「シンプルであるながら強烈なインパクトのあるもの」を作りたいと佐藤は述べている。少し強引に好意的に見れば、こうした可能性も感じることもできる。

*1:このネーミングやアルファベット表記自体がICONIC BRANDINGの例のようで面白い。

ある「公共」に、合う方法を:「フォーラムとしてのミュージアム」論とICOM「ミュージアム定義をめぐる摩擦問題」

山本唯人さんのサイト「東京都平和記念館アーカイヴズ」や、「フォーラムとしてのミュージアム」論に関して、山本さんとメールで対話する中で考えた。
 
以下のエントリーで書いた日本型「公共」に合わせた議論や研究の営みはどのような形か?という問いにもゆるくつながる。

phoiming.hatenadiary.org

 

2019年にICOM京都会議に参加して考えたことをこれまで書く機会もなかったので、「ミュージアム定義をめぐる摩擦問題」についても触れておこう。

フォーラムとしてのミュージアム論をいま読むこと

ダンカン・キャメロンの論考「ミュージアム:神殿か対話の場か」は1971年に書かれた。もし対話の場を作ることをミュージアムの目的とするならば、それに限れば、方法は別にミュージアムではなく「展覧会」や「ウェブサイト」でも良いのではないだろうか。
 
フォーラム論はミュージアム研究の「古典」として現在に至るミュージアムのあり方の一翼を基礎づけるものだが、その論旨は、対比される「神殿型(temple)」からの脱却である。これを参照した活動や議論では、フォーラムが「ミュージアム」であるべき理由がどこにあるのかという点がもっと意識されなくてはいけないように思う。

ICOMミュージアム定義をめぐる摩擦問題」

ここ数年ユネスコミュージアム機関ICOM会議が「ミュージアム」の定義を更新しようとして紛糾しているが、このあたりにも「民主主義」や「公共」のあり方や理解が地域によって違うことが関係している。
 
この「ミュージアム定義をめぐる摩擦問題」は、基本的には、ポスト植民地主義的な南北問題やポスト冷戦状況を背景にしており、「定義」策定という一見ニュートラルな態度であるにもかかわらず、国連機関がある種の規範として加盟国におしつけるものが、実は古典的な「西洋モデル」だという反発である。
 
ただ反発している方も参加国のリベラル派であってイデオロギー的な異論は少ないと思うが、雑な手続きで「理念」を「定義」というパッケージに包むあたりの偽善・欺瞞への反発があるだろう。(もちろん、これでは「うちの国の官僚たちが思う「ミュージアム」じゃないので予算が降りなくなる!」と、実害を訴える批判もある。)

適切にデモクラシーが機能する「場」はどこ?

デモクラシーが割と機能している(ように見える)西欧や北米などの地域・国々ではフォーラムは「ミュージアム」を使って然るべきだが、或る国ではその形式でなくても良いし、むしろ広場やカフェやパブ、寺社や教会といった、ミュージアムや図書館でその公共性を代替しようとする前の「場」や、あるいは、ウェブサイトやSNSといった「場」でも良いのかもしれない。
 
メディアを単一の形式で理解しようとすることもまた、実態の把握を貧困化する。((最近出た『ポストメディア・セオリーズ』ミネルヴァ書房、2021なんかが参考になる。))なんの方法を取るのであれ、複数が連携・代替すること(=マルチメディア、トランスメディア)をベースにして考えた方がいいのだろう。デジタルが普及しきった「ポストデジタル」な社会ではなおさらそうだ。
 
「東京都平和祈念館アーカイブズ」は、議論をオンライン⇄オンサイトで開いていく基盤やネットワークとして、またアーカイヴとしても機能したが、このようにある目的に応じて場=メディアを設計すると良いのだろう。展開した経緯を企画者の山本さんに伺ったところ、そのあたりは「記念館の計画」「美術館」「美術作家」と複数の主体がいる連携事業だったこともあって、意識的に進められていたようだ。

メタファーで生まれる「ミュージアム」である必然性

ここ数年ほど気になっている「ミュージアム」という言葉についても考えた。この語の持つ「場所」のイメージが「ネットワーキング」と「求心力」を持つことを考えれば、いろいろな活動に対してミュージアム」という言葉を乱暴に名づけることも、もっとポジティブに受け取ってもいいのかなと感じはじめている。
 
例えばVirtual Multimodal Museumはデジタル化と資源活用をウェブベースで考える組織だが、このように「ミュージアム」をメタファーに組織化している例がある。
 
直島に移住した現代美術作家下道基行くんが「瀬戸内「  」資料館」の活動をしているが(「  」に毎度テーマが代入できるようになっている)、”島の資料館”は周辺住民にとって相当に公共的なイメージを持つだろう。
 
ミュージアム」とか「博物館」とか言葉の濫用といえば、博物館法上の「博物館類似施設」とかエンタメ系のミュージアムとか良いイメージを持たれない場合も多いが、言葉・メタファーとしての「ミュージアム」の意義についてももう少し考えても良いのかもしれない。

オンライン講演でジェンダーとアートの話をします。6/21「美術史に「女性」をとりもどす ーーアートと美術館のアクションから学ぶジェンダーと歴史」

 

6月21日に次の講演でお話をします。オンラインです。

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フェミニストアーティストや美術館のジェンダー問題への取り組みなどを、作品や展覧会などをたくさん紹介しながらご紹介する予定です。

主催は、女性が生きやすい社会をつくるための取り組みをしているNPOThe F-Word」です。

アートは日本では浮世離れしたものと思われがちですが、アートの持つ社会や意識変革の力とおもしろさに触れてもらう機会になればと思います。ぜひお気軽にご参加ください。

 

peatix.com

 

美術史に「女性」をとりもどす アートと美術館のアクションから学ぶジェンダーと歴史 

講師:小森真樹(武蔵大学准教授 ミュージアム研究/アメリカ研究)

ミュージアム研究者の小森真樹氏を迎えて、ジェンダーの視点からアートと美術館の歴史を考えるレクチャーを開催します。

【詳細】
アーティストは、時代のムードや社会の課題に対して反応をしながら表現をしています。つまり、アートの歴史は時代を映す「鏡」であり、アートを展示・保存して後世に伝える美術館は、アートをとおして時代を記憶する「箱」ととらえることができます。

オリンピックや大学入試などに関する具体例を挙げるまでもなく、昨今ではジェンダーの不平等や不均衡の問題が次々と露わになっています。こうしたジェンダーの問題はアートの世界にも根深く残っていますが、アーティストはこれらをどのように表現しているのでしょうか?

このレクチャーでは、ジェンダーの問題に対してクリエイティブなアプローチで応えるアート作品や展覧会、ミュージアムの事例について解説をします。「ゲリラ・ガールズ」のような有名なフェミニストアーティストから、国内であまり紹介されていないアーティストまで扱う予定です。ジェンダーをテーマにキュレーションされた展覧会、「女性美術館」というちょっと面白い美術館活動の取り組みや、デジタル展示やコレクションの再解釈といった最新のミュージアムの活動にも触れながら、「ジェンダーと歴史」という観点からアートを眺めていきたいと思います。

イベントの後には、美術館とアートと世界の見方がちょっとだけ変わるといいなと思っています。

【イベントの概要と流れ】
※ 日本語での開催となります。
※ 初学者向けのイベントです。美術史など専門知識を前提とせず、事前の準備も不要です。
※ Zoomを用いたレクチャー形式です。Q&Aのセッションあり。
※ 参加中はビデオ(映像)オンでもオフでもどちらでも構いません。
※ イベントの録音・録画はお断りいたします。
※ 作品は著作権法の範囲内での引用・紹介となります。(参考:https://www.kottolaw.com/column/200410.html

日 時:2021年6月21日(月) 18:00~19:30
場 所:オンライン(Zoom)※配信URLは当日15時ごろにPeatixメッセージにてご連絡します。
参加費:500円

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