同床異夢

論文や学会への自己紹介文も送付し終えて少し肩の荷が降りた気持ち。続いてかじこのミーティング、と思ったら2人と連絡がとれず、しょうがないのでリサーチの準備の続きを進めていく。いつも雑談めいた相談に乗ってもらっている、信頼ある親愛なるミシガンの友人に論文や渡米の報告メールを送る。数日の所感をまとめ、以前より彼女と話していた「擬似真実なるもの」の話へと、必然なのかわからないが、思いがけずつながっていく。科学に対しての創造科学とオカルトは、一般には単なるアウトサイダーとして切り捨てられることが多いが、自身の関心はエキセントリックな対象としてのそれらでは全然なく、むしろ、「狂気こそが真実であると体現することで、却って所謂『真実』の危うさを投げかけてしまう」という点にあることを再認識できた。「しまう」という点が重要で、常識を真面目に否定してかかる人たちの力強いリアリティがホンモノを危うい状態に落としいれてしまうからこそ、これは単なる「部分」の問題ではない。フーコー的な意味での「狂気」の歴史なのだと思う。すなわち、人類学の持っている(いた?)相対主義の方法論の問題である。

 

かじこのミーティングは思いがけず三宅と二人で行うことに。親密な雰囲気で始まり、終える。

 

折りしもAmerican Visionary Art Museumにゆくことになり、Visionary art=Outsider art=Isolated art=Naive art=Raw artをテーマにしたミュージアムから同様の「狂気」「逸脱」と「常識」の問題を考える。こうした数多くの用語の中から、デュビュッフェによる、直感intuitiveと非教育self-taughtの二点から定義されるvisionary artというポジティヴな概念を選択したこのミュージアムは、わかりやすく非常に美術史的で「アートな」美術館だった。以前拙稿にて、「アウトサイダーアート」とは、“芸術(=アート)の外部(=アウトサイダー)であることによってアートたる”という、アート界の内部から与えられた危うい概念であることを議論したことがある。このミュージアムでは、作品単位で見られる「作家」の日常的営為をプロフェッショナルが文脈化するという同じ点が見られることに加えて、展示施設であるがゆえに、ミュージアム展示におけるディスプレイが文脈化に大きな役割を果たしていることがわかった。展示によって美術史的な評価を得られるように見せかけることは可能であるし(デザインは大きな役割を果たす)、また、ここのコレクションに蒐集されることでこれらは美術品と「なる」。例えば、ペッツのコレクションやcrop circle(ミステリーサークル)愛好家の写真集も、ここでは立派な美術品だ。初めてこの種の専門館に来たことは収穫だった。同志社大学の宮下忠也さんが今度アウトサイダー・アートの美術展を開くそうだが、こういう話を改めてしてみたい。また、滋賀のボーダレスアートミュージアムNO-MAにも顔を出してみたい。

 

帰りがけようやく電話を手に入れて、夜は滑り込みで学会運営のミーティングに。こちらも整ってきた。研究会の企画案も詰めていきたいところ。

 

先の友人からさっそくの返信がある。「同床異夢」という言葉をいただいた。吃驚。彼女はいつも、僕の使わない言葉をもって僕のことを精確に捉えてくる。不思議な心地よさがある。同じ場所で寝ていても違う夢を見ること。先月くらいから山下敦弘作品を見なおして、ディスコミュニケーションによって生まれる「理解」こそにリアリティがある、ということをまさに考えていた矢先だった。それでもコミュニケーションするしかないのか、それとも人は諦めざるをえないのか。古谷実の『ヒミズ』が園子温監督で映画化されることを思い出した。いまなら僕は、『わにとかげぎす』の「未来」にかけたいと思える。

 

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