Two essentially-externalized shows: The Jewish Museum, and Otomo Yoshihide & Christian Marclay at the Japan Society.

● The Jewish Museum

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Amerian Jewish Societyの運営するミュージアムユダヤの歴史についての常設展と、二つ程度の特別展が常時開かれている。ユダヤ人には文化人も多いがゆえに他のエスニックマイノリティ系のミュージアムと比較しても特別展が毎度すごく豪華な印象。

ユダヤ(教・人)」については、基礎的なことを勉強したいしたいと思いながらなかなか出来ずにいた。なので、「アメリカにおけるユダヤ」という文脈だけでなく、世界史的視野で、しかも大量の資料を目の前に学習できたというだけでも訪れた甲斐があった。下手な教科書数冊読むよりも大枠を掴むことで深い理解ができる、秀逸な展示だった。

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基本的には時系列に

アイデンティティの鋳造 1200BCE-640CE

・伝統の解釈 640-1800

・近代性との対峙 1800-1948

・未来への気づき 現代

という構成になっていて、

ユダヤ人が自文化を疑問視し、再解釈する状態に常におかれてきたこと

ユダヤ人とユダヤ教と他文化との交流

ユダヤ人の生活を変容する歴史的な事件の影響

という、3つの「触媒」(影響を与えるきっかけ、くらいの意味かな)を柱に理解するストーリー。

 

このスキーマが非常にクリアでわかりやすい。もちろんシナゴーグやトーラー、サバトなどの各要素の意義についての解説からはじまって、地理的・歴史的な多層性がある「ユダヤ」概念の分類法など各論も勉強になった。

ユダヤ人の歴史について大きな背景は次のようなもの。ディアスポラの経験と記憶によって離散した民が培った「融和」と「学び」の伝統。それよって世界中の地域の内側にあまねく「外部」として存在する。これが、資本主義社会においてその「学び」の伝統によって成功を収めることになった一部のユダヤ人は多民族の反感を買い、とりわけ国民国家の段階では大虐殺の悲劇にまで至る摩擦を生むこととなった。

世界史的解説においても、ナショナリズムの現代ではイスラエルアメリカ合衆国の「ユダヤ人」が二つの大きな塊として提示されていた。現代アメリカ社会での民族観の微妙なニュアンス(コメディアンが自虐ネタにするようなブラックヒューモアとか)は僕にはまだまだよくわからないけど、今回をきっかけにウディ・アレン全作品でも観てみようかしらん。 

一点とても不快だったのは館内監視の眼があまりに強すぎたこと。でっかいカメラ下げて歩いてるとまず撮るなよって注意されて(僕だけじゃないのに!怪しまれたのか)その後は館内の係員がずーっとついてくる。館内の監視カメラをチェックしてる人が別室にいるという徹底ぶりで、その人が警備スタッフに無線から漏れるすごーく大きな声で「パネルの前のデジタル機器持ってるやつ」とかって叫んでて居心地が最悪だった。おまけに僕は、すごく時間をかけて熱心にノートとってるわiPodで辞書使ってるわで誤解される要素満載。一々絡まれて説明するのがすごくめんどくさかった(笑)。

大方のミュージアムでは監視員ってダラダラだべってたりするんだけどね。ま、仕事熱心でけっこうなことです。

 

● Otomo Yoshihide and Christian Marclay, talk and concert  

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滞在のタイミングに運良く大友良英とクリスチャン・マークレイのライブが開かれていた。会場は3月に訪れたときもタイミングよく、「ポスト村上隆の時代の日本美術展」を謳った"Bye Bye Kitty"展が開かれてたJapan Societyで、こことはなんだか相性がいい。日本文化をアメリカで紹介する窓口となっている機関だが、その企画は(とりわけ村上隆リトルボーイ展を開いて以後)アメリカおよび欧米世界における日本文化に与えられた地位を考えるには欠かせない。

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研究者たちを交えたトークの後、しばらく時間をおいてライブという構成。トークターンテーブル奏者としての二人の関係やそれぞれが影響を受けた作家を聞いていくというおきまりのパターンでつまらなかった。両者とも音楽や展示、パフォーマンスとさまざまなメディアで表現しているのでそれについてけっこう聞いたかな。Project Fukushimaのような活動をしている大友さんなのに、震災に関連する話題に触れなかったのが残念すぎる。Association of American Studiesの年次大会での”Japan in the Wake of 3/11 Eastern Japan Earthquake/Tsunami/Nuclear Disaster”もドメスティックな問題を国際的に開いていくというような側面があったけど、Japan Societyの趣旨と思いっきり合致すると思うんだけど…。大友さんはいつもの調子でウケ狙いかつ本気な回答をしていて面白かった。

 

ライブはかなり刺激的だった。まず眠くならなかっただけですごい(笑)。

音について。マークレイはマテリアルそのままの音をにしているのに対して大友はサウンドエフェクトに近い。大友はギターでもしばしば同じような音を作る。もちろんかなりお互いの音を読みあってプレイしていた。レコードプレーヤーだけではなくて、今回はしばしばレコードを使っているので録音された音が即興を生み、裂け目になっていたのがかなりよかった。

というのはおいといて、観客の反応が日本と全く違って興味深い。見るにおそらく半数くらいいた年齢層高めの観客は、 実験的なクラシックでも聴きにきている様子。途中ノイジーになったあたりでけっこう席を外していた。ジョン・ケージの4'33''初演で理解不能に陥った観客が怒ってゴミを投げつけた伝説再び、というわけだ。

いっぽう日本でのライブでは、みんな期待してノイズ(・ミュージック)を聴きにくるのでこういうことはあまり起こらない。日本ではなぜこれほどノイズミュージックが盛んなのかということがトークでも話題になっていたが、日本には明確に(ごくごく小規模ではあるが)「ノイズ・シーン」みたいなものがあるんだなあということに気がついて面白かった。

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終演後こちらのニューヨークのミュージック&フォトグラフィ・シーンにいるひとたちと話してると、大友のような即興やノイズに特化したミュージック・シーン(例えばレコード店、ミュージックバー)などはNYCでもほとんど見当たらないらしい。その場にいたローカル・ファンと話してるとアンビエントエレクトロニカから関心を持った様子。これはちょっと興味深い。

ちなみに会場にはカルチャー好きっぽい若い日本人たちもけっこういた(なぜかカップルが多い。女性はアート系なオシャレっぽくて男性は短髪。何故?)。終演後、日本人同士で顔見知ってる感じだったから、こちらに滞在しているアート系コミュニティかな。

また"green"とかそういう類の、ある一定のスタイルを持った若い人達(ニューエイジや健康志向的なもの、Zen=禅などの東洋趣味などが特徴)は、日本の文化に漠然と魅力を持っているのだが、ちらほら様子をうかがったり話を聞いていると、どうやらノイズ・ミュージックはそういうカルチャーにたやすく組み込まれるらしい。Japan Societyのような機関が「窓口」になるとはそういうことなのだ。キティやガンダムがいつからクール・ジャパンになったのか。こうした海外の文化機関(とその展覧会)は重要なメディアだ。

Zenとgreenのなかにノイズ・ミュージックって…なぜ?と思うけど、逆に考えればとても簡単なのかも。雑音をフェティッシュに愛でるなんてよくわからないものの代表だから、「よくわかんないけどあんまりこっちで聞いたこともないし、やっぱジャパンのサブカルすげ~」となりやすいのか。「クール・エキゾチック・ジャパン」というわけだ。

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本質的に外部として構造化されてきた「ユダヤ」、そしてしっかりエキゾチックの伝統の上に新たな「外部」を再構成している「ジャパン」。二つの外部を最後の夜に考える。