宇宙開発/開拓史と食:スタートレックとスターウォーズ

睡眠学習(=サブリミナル)ネタ2。

宇宙食の発展について。ワインやビールを無重力で飲むだ(ビールはむずいらしい)とか、ソ連アメリカの宇宙食の開発の違いとか。宇宙開発/開拓史と食事の関係は、立派なフードスタディーズののネタになりそうだ。
http://www.americastestkitchen.com/radio/program/detail.php?docid=38457

ちょっと前から開拓の精神が宇宙への想像力にいかに関係してきたかに興味を持っている。
例えば、お世話になっている先生がこういう話を講義されていた。スタートレックスターウォーズ。50年代アメリカを象徴する前者が、明白に「西部開拓の精神と『未開』社会の文明化」の物語であるのに対して、60年代以降公民権運動を経た時代の後者は、「西欧近代中心主義的な価値観が相対化した時代の『自己/他者』定義」の物語である。つまりスターウォーズは、「ニューエイジにおける自分探し」。ほら、ルーク・スカイウォーカーは親父がアナキン=ダース・ベイダーということが後でわかって、だんだんジェダイとして成長していく、居場所を見つけていく。わざわざ「セイバー=刀剣」で戦うし、禅思想的な「フォース=気」が物語の力の基準。

この議論は宗教観を中心にしたものだったけど、食事のシーンについて分析したら面白そうだなと睡眠学習しながら思った。
友達と両シリーズを合宿して全見しようという話が出ているが実現していない。

アノニマスと仮装と変装

ウェブサイト攻撃や「祭り」による問題の顕在化などオンライン上で反権力的な行動をとるハクティヴィズム(=ハッキング+アクティヴィズム)集団アノニマスによる渋谷の清掃運動が行われた。今回の行動は、直接には6月に可決された「違法ダウンロード刑罰化」に対する行動だった。先に彼らは自民党財務省日本音楽著作権協会JASRAC)の公式ウェブサイトをダウンさせていたのも記憶に新しいし、むろんジャスミン革命におけるチュニジア政府への攻撃、情報統制・検閲に抗議してエジプト政府やムバラク大統領の公式ウェブサイトのサーバをダウンさせたことが世界的にその名を知られるようになったきっかけだろう。
http://www.asahi.com/national/update/0707/TKY201207070134.html
http://portirland.blogspot.jp/2012/07/blog-post_8625.html


お行儀よく整列

しかし今回の行動につきぬけるものを感じなかった。赤瀬川原平たちによる東京ミキサー計画は、東京オリンピックなどによる東京のジェントリフィケーションに対して、銀座の街を過剰に「清掃」することで当てこすったのだけれど、アノニマスの清掃には何かアイロニーが含まれているのだろうか。仮面の黒スーツ集団が渋谷で清掃している奇妙な可笑しみはあるにせよ、あまり批評性のある面白さを感じないのは僕だけか。

天気も好いので、今日は麦藁帽子に半ズボンにしよう、そしてもちろん、アノニマスのマスクも忘れずに。
※国立のデモは仮装・変身デモです。ちいさな街だと、ご近所や親類縁者、知りあいの目があって、なんとなく照れくさい、とか、ちょっと気おくれする、という声から、このローカルな仮装・変身デモがはじまりました。
イルコモンズのふた(7月8日のエントリー)
http://illcomm.exblog.jp/16272810/

イルコモンズさんのエントリーから連想したけど、仮装することが匿名性を生み、別のものになりきってキャラクターを演じきると同時に、「日常(=ケ)」の個人的な関係性・しがらみから開放されて「非日常(=ハレ)」のなかに飛び込んで開放される効果があるのだろうか。くにたちのデモが仮装しているのは、ご近所さんの目が気になる人もいるからということらしい。
http://nonukes-kunitachi.blogspot.jp/

ハイレッドセンターによる東京ミキサー計画の「首都圏清掃整理促進運動」は、全身白衣で匿名性を表現している一方で、「ハイ=「高」松次郎/レッド=「赤」瀬川原平/センター=「中」西夏之」という表現者の名を冠していたように明確な主体性をもった活動だった。

アノニマスは、その名前からしても、オンライン上で個人を特定させない活動の形態からしても、(一部にはアメリカ西海岸発と言われるものの)特定の「中心地」が不在であることも、国籍・言語では(大飯原発再稼働への抗議行動で「霞ヶ浦」と「霞が関」を間違えていたことなど偏りは見られるが)基本的にはトランスナショナルな運動であるとされることも、実質的なメンバーが確定せず匿名的であることを活動の条件や旨としている集団だ。アノニマスメンバーと支援者を併せて70名ということだが、「支援者」の部分が目に見えて肥大化していくような、主体性が不在であることを強調する方法であればより効果的だったのではないだろうか。「ああ、ここにもいた」「意外にすぐそこにいる」という恐怖にも似た感覚がご近所感覚に変わった時に、人々の意識が変わるような気がするから。

女性の姿も。白衣じゃなくスーツだとジェンダー化されるなあ。

TACO USA, SLEEPING FOOD STUDY

朝から不思議にタコスが食べたいなあと思っていたら、目覚まし代わりにかけていたラジオ番組でこの本を紹介する特番がかかっていたことが判明(ネットラジオなので数時間毎に同じ番組がかかる模様)。サブリミナル効果…。


Taco USA: How Mexican Food Conquered America
作者: Gustavo Arellano
出版社/メーカー: Scribner
発売日: 2012/04/10
メディア: ハードカバー


先日から友達に食文化史の著書をいろいろ紹介してもらっていましたが(ハンバーガー、アイスクリーム)、偶然にも引き続きメキシコ料理。アメリカのヒスパニック系移民の歴史との関係にフォーカスされているようで面白そう。

紹介していたラジオ番組
The California Taco Trail: 'How Mexican Food Conquered America'

安世鴻による元従軍慰安婦写真展@新宿ニコンサロン

先週行って来ました。小さなギャラリーにセキュリティが10名弱、空港並みのセキュリティチェック、普段のニコンサロンで出来ることへの規制(廊内写真撮影、チラシ配布、カタログ販売)となかなか辟易な状況です。人権系の活動団体の方々がボランティアでスタッフをやっていました。作家も在廊。平日の午前中にもかかわらず滞在した30分ほどのあいだにも20人くらいは入っていたように思います。その前の週には30分待ちとかでかなりの人が入っていたらしい。

作品は、韓国人写真家の安世鴻(アンセホン)さんが在中国の元慰安婦たちを撮影したもので、現在の厳しい生活と悲哀を強調したようなキャプチャの仕方で、強い画面の写真でした。42×60cmのA2サイズくらいの作品が、30点ほどでしょうか。キャプションがないのは展示会場からの「要望」ではなく作家側の意向とのこと。コンセプト文はあり。カタログは販売がニコン側から禁止されているとのことで、予約制で後から送付してくれるとのこと。小さなリーフレットのようなものでした。作家のその他の作品集は、韓国の伝統的な舞踊である仮面の舞(タルチュム)を対象にしていたが、そこからも作家は継承されてきた「歴史」の現在時に焦点を当てていることがわかります。本展も、元慰安婦の現在の「生」を描いている。

なお、大阪、名古屋、広島、ソウル、ニューヨーク、パリ、ベルリン、ロンドンへ巡回するということで各地での反応はが興味深いです。

この会場の隣りにbisという別の展示スペースがあって、そこでやってたのが「SHIBUYA」という渋谷のストリートでギャルやコスプレやひなびたサラリーマンを撮影した展覧会。慰安婦展の会場を通らないと入れないところでそんな展覧会をやっているのが、悪い冗談か、あるいはある種の現代美術のようでした(笑)ーーー「表層」と「深層」、あるいは「隠されたもの」と「現れたもの」から暴力性を見せるといった類の。

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ニコン公式ウェブサイトの声明
6/26 (火) 〜7/9 (月) 安世鴻写真展は諸般の事情により中止することといたしておりましたが、東京地方裁判所から、「ニコンサロンを安世鴻氏の写真展のために仮に使用させなければならない」との仮処分が発令されましたので、これに従って、安世鴻氏に対し新宿ニコンサロンを仮にご使用いただくことといたしました。(現在、東京高等裁判所保全抗告を申立中です)
http://www.nikon-image.com/activity/salon/schedule/

なお、この作家による名古屋を拠点にした重重(JUJU)プロジェクト自体はこの展覧会に限らない別の活動みたいです。
http://juju-project.net/

会期終了前日、東京新聞の報道
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20120708/CK2012070802000109.html
7000人というのはこの会場規模、期間ではかなり入っているほうですね。どのような人たちが見に来たのだろう。

チョコレート・ミリタリー・ビジネス:『チョコレートの帝国』

Joel Glenn Brenner, "The Emperors of Chocolate: Inside the Secret World of Hershey and Mars." Ramdom House, 1999(ジョエル・ブレナー『チョコレートの帝国』みすず書房、2012年).

チョコレートの帝国

チョコレートの帝国

Hershey'sのハーシー社、M&M'sのマーズ社というアメリカ合衆国の、そして世界に覇権を誇る2大お菓子メーカーの歴史物語。本国アメリカでは「国民食」のような位置づけにありながらも、レシピだけでなく企業そのものについても極端な秘密主義を守ることで国民の「垂涎」の的になっているらしい。

本著者はジャーナリストである。縁あって公式に取材することを許されたことで出版に至った。授業の課題だったのだけど、研究書ではなないこの本がいかなる分野の歴史研究として位置づけられるのかということを議論した。

●American History/Transatlantic History/Local History
●Personal History/Biography/Oral History
●Business/Corporate History/Corporate Anthropology
●Food Study---Chocolate History
●His of Technology
●Market/Industrial History
●Philanthropy
●Military/War Studies
●Labor History
●Utopian Studies
●Suburban History

かなり多彩。こういうふうに多分野に研究を位置づけられるのも一種の強みだろう。

まわりにコーティングがされたM&Mチョコが暑い地方に進軍する軍隊のために開発されたように、チョコレートは戦争の歴史と密接な関わりがあり、菓子企業は戦争商人としての側面も大きかったという。

その一方で面白かったのは、また、ビジネスの世界の用語が「戦争/戦闘/軍事」用語の比喩に満ち満ちている点。「覇権を誇る」と上に書いたように。例えば著書でも「独裁者」「探検家」「征服者」(p85)などの言葉がよく出てきたし、タイトルの原題は「チョコレートの帝王」、邦題は「帝国」である。

「当たり前に生きる」ことの脆さ:ワン・ビン(王兵) 『無言歌』

当たり前に生きることとはこれほど難しいのか。

本作の舞台は1960年、中国西南部の荒地。文化大革命前、毛沢東は自由な批判を受け入れるとして「百花斉放・百家争鳴」の運動を推進した。しかし、それに従って政府・毛沢東を批判した人々は、翌年徹底的に弾圧される。この「反右派闘争」の際、思想修正のための強制労働を行った再教育収容所が描かれるドラマである。

この事件の政治的意義・是非を問うほどの理解は自分にないし、生存者への聞き取りを元にしたノンフィクション小説(楊顕恵『告别夹边沟』 2003年、上海文芸出版社)および実際の証言からワン・ビン王兵)監督が脚本を書いたという本作がどれほど「事実」を描いているのかということにはあまり興味が持てない。もっとも強く心に残ったのは、食べること、働くこと、働いて充足すること、思想すること、そして死ぬことという「当たり前」のことがどれほど困難で貴重な行為であり、それがいかに複雑なシステムで守られているのかという気づきである。

僅かながら存在するストーリーから見るに、本作もまたその辺りに焦点を当てているように思う。この再教育にあらかじめ織り込まれた徒労性が示唆される場面―――現場監督たちが作業の遅れと飢饉の到来、本部からの人材供給の停滞を伝える―――で始まって、このなにもない労働の時空間で「ただ、ただ生をすり減らしていく」そんなシーンがいくつか流れてゆく、そして、労働農場が閉鎖されるでもなくただ収容者たちを還す場面で突然幕を閉じる―――この労働農場はいかなる役割を果たしているのかということやこの後どうなったのかという後日譚を描くでもなく、中央の政治を描くでもない。かといって、とりたてて人間の心理を捉えるでもない。「緩漫な生の摩耗」という蓮實重彦の言葉を引用したがあるが、まさに生がすり減らされる「日常」が切り取られている。

飢饉によって蓄えも底をついた食料状況では、収容者たちはほとんど何も入っていないスープだけを常食にする。ネズミや木皮、果ては他人の嘔吐物や死骸までも喰らうしかない惨状は確かにおぞましい。死者たちは、人型に土を盛られるより他にはほぼゴミ同然に扱われている。事情を知らず「都会」から旦那に会いにやってきた妻は、夫が死んだこと、ここで「死ぬこと」が何を意味するのかがわからず発狂寸前で夫の亡骸を探し続ける。生死記録人(ここで高官ではなく記録人しか登場しないのもまた、カフカ的な気色悪さがある)や同室の人々が亡骸を探すのを諦めるよう説得するも、妻は亡霊のように亡骸を探し続ける。彼女にとっては「夫」であるそれは、彼らにとっては「死骸」である。

我々が普段直面している「当たり前に死ぬこと」とは、幾重にも幾重にも重ねられた手続きによって「人」を「ゴミ」ではなく「遺体」に変えていく上でようやく成り立っている。「当たり前に食べること」も、動物に直接手を下さずして目の前に「食肉」が並ぶように、高度に設計されたシステムによって成り立っている。
作中、人肉食をしたものを厳重に処罰しようとする高官たちが描かれるが、なぜそれがいけないことなのか、なぜこれほどまでにタブーとして処理される行為なのか、わからなくなってくるようなところがある。この意味で本作は、ある種の法哲学的な問いを投げかけているように思う。(超越論的な、あるいは撞着語法的な物言いではなく答えられる人はそう多くないはずだ。例えば、人肉食ではなく「なぜ飼っているペットを食べてはいけないのか。これほどまでに食べたくないのか」、としてもいい。)

そういえば昨年の今頃も同じようなことを考えたのを思い出す。
東日本大震災が起こったその日、ボストンにいた自分にはおよそ一日間ほとんど何が起こったのかわからなかった。すぐにわかったことのひとつは、自分が何かを知ることはこれほどまでにメディアの力に拠っているということ。その後も原発によってフクシマという地域をリスクという犠牲のもとに私達の生活を支えていた構造が明らかになった。

政治的なものに限らず<大きな衝撃>を与えられたときに「当たり前」の自明性が問われ、晒される。無言の歌はここに響いた。

和風・純アメリカなるもの:三谷幸喜『君となら NobodyElseButYou』

三谷幸喜脚本による1995年の舞台。二年後に再演。共にパルコ劇場。抱腹絶倒のシットコム

当時のコピーが

ニューヨークタッチの純和風お茶の間ホームドラマ
親子ほどの年上の恋人をつれてきた娘が家庭に巻き起こす
騒動をアップテンポに描く。

ある

当時言われるところの「ニューヨークタッチ」ってどんなだろう。
理想の家族像は保守的だけど娘のワガママには翻弄される父母のキャラクター設定なのか、登場人物たちは(わかっているのかわからないまま)不条理を受け入れてしまうが故に誤解が大きくなっていくライトなコメディ感覚なのか(日本人のニックネームが「ケニー」って(笑))、はたまたちょっとヒいてしまうくらいハイテンションな宮地雅子さんたちの演技なのか(故・伊藤俊人さんはやっぱりいいなあ)。コピーの背景には『ゴースト/ニューヨークの幻』?『34丁目の奇跡』?『世界中がアイラブユー』?みたいな具体的なイメージがあるんだろうけどわからないのが悔しい。

ともあれ三谷幸喜の十八番である、「純アメリカ」的なものを日本を舞台に置き換えて違和感を構造化していく手法がここでも効いているということなんだろうな。

追記:
元ネタはアラン・エイクボーンなのかも。
この作品含む三谷作品への影響を指摘している記事いくつか発見。