砂田麻美『エンディングノート』/平野勝之『監督失格』

吉祥寺バウスシアターで死についての二本のドキュメンタリーを立て続けに観る。ある意味において共に、<葬儀=喪=忘却装置>をテーマにしたドキュメンタリーとして観た。

エンディングノート』は監督自身の父親が末期がんで死の宣告を受けた後の約一年間をドキュメントしている。サラリーマンである父は、葬儀の段取りなど死後も含めた「エンディングノート」を綴っていた。監督はその模様を克明に撮影しつつも、生来のあっけらかんとした父親のキャラクターも手伝って一種コメディとしても通用するようなエンターテインメントとして仕上げた。父役のナレーションをなんと監督自身が務めることで、主観を初めから放棄することでヒューマンドラマな「物語」として成立させている。

一方、『監督失格』は、AV女優林由美香と恋愛関係にあった平野勝之監督が撮影した彼女と監督の「純愛」ドキュメンタリー。林がドキュメンタリー撮影中に不慮の死を迎え、その現場を撮影してもいたのだが、彼自身それを「作品」としてひとつの形にすることに躊躇し続けていた(実際、同時に現場に居合わせた林の母親との法的悶着もあった)。映画と映画作家の「不完全」という形式をとって、つまり林自身が平野に与え続けたラベルでもある「監督失格」なドキュメンタリー映画として成立させた。AVといっても自身の当事者性を強く打ち出すドキュメンタリー的手法によって監督・撮影を行う平野は、自身のキャリアの影に常に林由美香の影が落ちていた。本作の題材となった事件は、彼女の死後、「彼女の死を忘れたくない」ために作品化できなかったのだ。それを「不完全」という形で――ドキュメンタリーの不可能性というより大きなメッセージも含みつつ――提示したことは、彼にとっての<葬儀=喪=忘却装置>であった。

治療方法の選択ができるほどには経済状況良好、息子が海外でビジネスをするような高学歴、臨終間際に海外からは急遽孫たちが集まって親族に看取られるような「幸せ」な家庭における死。砂田監督は客観をはじめから棄てることで「ホームビデオ」を「物語」にしてしまうことで、お父さんを「送る」ことができたのだろうか。
自身のプライベートを全て映像化=商品化するようなAV業界にあって、自身の純真な愛を、それが終わってしまう物語を「作品」として硬直化させてしまうことに最後まで抗い続けた(ている)平野監督。彼は親愛なる彼女を「送る」ことに成功したのだろうか。

家族と恋人という対象は違えど、両者について「忘却すること」ばかり考えている最近の自分には、そのことばかりが気になった。