水、動植物、民間療法は誰のものなのか:Irena Salina『FLOW』

ある機会に、水ビジネスについてのドキュメンタリー、『FLOW For Love of Water』(Irena Salinaイレーナ・サリーナ監督、2008)を『松嶋×町山 未公開映画を観るTV』(TOKYO MX)で観たのを思い出す。

近代のインフラ開発事業以後、世界中の水は、わずか3社(仏のスエズ社、ヴィヴェンディ社、英のテムズ・ウォーター社)の寡占状態で商品として売られている。一度開発してしまえば元手のかからない水ビジネスは、もっともオイシイ商売のひとつだというわけ。各社は水源地に「インフラ開発事業者」として入り、現地の人々が使用していた(当たり前だが無料だ)水に価格をつけて当の彼らに売りつける。その価格が現地の物価からすれば法外な値段なので生活に必須の水を確保するために「盗み」を行う知恵をつける。また、この「貧困地域の開発」はその名目上、世界銀行の事業として大きな位置を占めていて、そのため3社の水伯爵(ウォーターバロン)たちと癒着関係にある。さらには、上下水道だけでなくボトルウォーターも(訴訟を重ねた結果として)「合法的」に売られているものだ。そして、水道の危険性を炊きつけて商品価値を高めているボトルウォーターの安全性も極めて危ういものである。本作はこうしたことが語られている。

これはそもそも誰かが所有しているものかどうかわからない、所有すべきものかどうかすらわからないものを占有化、私有化(privatization)していく近代的プロセスの窮状を切り取った映画とも言える。

町山さん松嶋さんの番組のサイト

この映画を思い出すきっかけになったのが、昨年末に立て続けに刊行された『品種改良の世界史』の"家畜編"、"作物編"の二冊(悠書館、2010年)。編著である本書は、かなりの数の著者によって、バラから霜降り牛まで、選別から放射線と遺伝子組換えに至るまでさまざまに論じられている。人間以外の「自然」がいかに「所有」というコンセプトに基づいて合理化されていくのか。こうしたことを考えるきっかけとなる論集だった。とはいえ、各トピックの農業史家・農学者たちによる論集なので文化政治学的な側面が語られることも少ない。あくまで「第一歩」という印象。

品種改良の世界史 家畜編

品種改良の世界史 家畜編

品種改良の世界史・作物編

品種改良の世界史・作物編



2002年から2007年には、山下晋司らによる資源人類学のプロジェクトで研究が『資源人類学』1-9巻(弘文堂)のシリーズにまとめられている。この中では、本草学(薬草学)などの民間療法やクジラやマツタケ熱帯雨林などの動植物、もちろん水資源などについて、ほとんどは具体的な事例に基づいて議論されている。第一巻「資源と人間」(内堀基光編)では、各巻ごとの論点をより抽象的な形で整理し、問題の所在をあきらかにしている。個人的には、所有概念とオルタナティヴに関して考えるような、第8巻「資源とコモンズ」(秋道智彌編)が気になっている。気になりつつきちんと読めてないので、この機会にまとめて読みたいかも。

[資源人類学 第8巻] 資源とコモンズ

[資源人類学 第8巻] 資源とコモンズ

中国の東洋医学的な植物の知識や遺伝子情報が外資によってどんどん特許とられてるという2010年のニュース


最近再読したのは、スタンフォード大「女性とジェンダー研究所」所長のロンダ・シービンガーによる『植物と帝国』(Plants and Empire: Colonial Bioprospecting in the Atlantic World, Harvard Univ. press, 2004/工作舎、2007年)。大航海時代に植民地を拡大し、数々の知識を獲得・収奪していったヨーロッパ人の歴史において、西インド諸島に伝わる人工妊娠中絶の施術法とその薬草「黄胡蝶(ピーコック・フラワー)」は、極めて高度な技術であったそれは西洋医学になぜ取り入れられ「なかった」のか。その事情を紐解けば、植民地における支配者・被支配者間の闘争やジェンダーポリティクスなどが浮かび上がる。フランス人が「極楽の花」と呼び、イギリス人が「赤い極楽鳥」と呼んだこの植物は(インクなど)様々な用途に用いられたが、唯一「中絶薬」としてだけ用いられなかった。なぜか。黄胡蝶による人口妊娠中絶とは、植民地下で奴隷と性の労働に従事させられた女性たちが、支配者たちとの間に孕んだ子供が奴隷としての人生を歩むのを拒み、主人に反抗するための手段だったからである。その記憶をヨーロッパ史から抹消するためである。ある文化的文脈のなかで抹消されることになった知識を研究する方法論、「アグノトロジー」(ロバート・プロクター)を援用して歴史のパワーポリティクスを鮮やかに描く文化政治学の名著である。

アグノトロジーは、私たちが何を知らないのか、なぜ知らないのかを問うことも含めて「私たちはいかにして知識を得るのか」という問いを再考しようというものである。無知とは、単に知識の欠如を意味するだけでなく、文化的政治的闘争の結果でもある。(p10)

資源・文化を「所有」すること。いかにしてそれが不均衡な力学の結果生まれたものであるのか。そこまでを描きだせる研究を目標としたい。

植物と帝国―抹殺された中絶薬とジェンダー

植物と帝国―抹殺された中絶薬とジェンダー

朝日新聞の書評