915回目がなければ遅刻しなくてすんだと思うんだけど: Finding me-and-you among our campy communications even in Japan.

深夜に目が覚めると喉が猛烈に痛い。寒い。すぐ薬を飲んで眠るが、一時間後にはSkypeのアポ。なんとか起きて作業を終え、思い切って起きて最悪の体調のまま作業。ようやく改稿原稿を送付する。

 

友達への誕生日のビデオレターをハイテンションで撮ったりする。

頭がぼーっとするままにハイテンションを演じていると、なんだか気持ちが二つに割れてきた気がしてくる。そういえばこの旅ではそんな経験ばかりだった。

一つのものに二つの側面があってそれらは不可分だとか、同じモノが違う場所にあると意味が変わってくるとか。日本で普通なメトロセクシャル(草食系男子?)はほとんどのアメリカの社会ではゲイに見えるとか、限りなくニセモノに近いリアルを目指してしまうリアリティだとか、そういったことばかり考えている。

60年代にスーザン・ソンタグ、camp=うそ臭く過剰につまらない振舞いをすることをアメリカ社会のある種の特質だと論じた。彼女はハイアート/ローアートの境界をバッド・テイスト("it's bad but good")で脱構築し、とりわけeffeminate=(男の)女々しさは誰にとって「女々」しいのかという問いをアメリカのホモセクシャル・コミュニテイの扱いを問うた。こうした存在は、むしろcampyに常態化している/すべきものなのだと。

ぽやぽやしながらcampyな自分を遊びながら、あ、こういう「アメリカ」は外部なんじゃなくて、そもそも自分も同じなんだなーってわかった。

ソンタグの"Notes on 'Camp'"では50年代日本の特撮映画『地球防衛軍』が挙げられている。Corneliusが同時代の陰謀論児童読み物「地球あやうし!」をパロディにしたのは、アイロニーであり、血肉化されたベタでもあり。

メタなアイロニーとネタの狭間の駆け引きでコミュニケーションをとる"僕と彼"。マイアミビーチと岡山で共鳴してなんだか可笑しい。

ハイテンションは、「誕生日おめでとう」の友達への愛を込めて、そして可愛らしいパートナーさんの笑いを誘うために作ってみた。ネタもメタもキャンプもシラケもアイロニーも、僕にとって実際どうでもいいのかもしれないと思う。「失敗」したコミュニケーションにこそ、"ソレ"があるときもある。

 


(手遊びに誕生日パーティ会場からMiami BeachのホテルをGoogle Mapで検索すると約17,000㎞。1,792回道を迂回すれば、37日間かけて到着できます。今から出てももう間にわんなあ。みーゆ、遅刻してごめん。体調が悪いのもどうでもよくなった。でも、915回目はけっこう辛そう。「太平洋をカヤックで横断する アメリカ合衆国(布哇)へ 6,243㎞」)